パーティーを通して人の心を強く揺さぶり続ける人達がいる。
彼らは何故、今の仕事を選んだのか?
このコーナーではパーティーというカルチャーに関わり続ける演出家たちの過去から現在まで続くキャリアを紐解いていきます。
第十五回は20年間、ナイトクラブで活動を続けるDJ SHINOBUさんのキャリア、前半をお送りします。
SHUNSUKE:
普段敬語で話とか一切しないので普段通りの口調でインタビューさせてください、まずは自己紹介からお願いします!
SHINOBU:
DJ SHINOBUです。年齢は40歳、千葉県出身です。
【初めての現場で「プロになる覚悟はあるのか?」と問い詰められる。】
SHUNSUKE:
DJを志したきっかけっていうのはなんだったの??
SHINOBU:
元々は自分はお客さん側の人間でした。友達がラップやってたりしたので遊びに行ったりすることがメインでしたが、プレイヤーの友達が沢山いたので、ターンテーブルやマイクが普通に身近にある環境でしたね。
東京に引っ越すタイミングで自分もターンテーブルを購入しました。その時は現場に出るとかあまり深く考えていなかったんですけど、先輩が「せっかく機材持ってるならイベントに出てみなよ!」と声を掛けてくれて出演したのが新宿イズム(注1)のパーティでした。その時にオーガナイザーさんからいきなり気合を入れられて笑
「お前どんな気持ちでDJやってんだ、ちゃんとやってんのか、日本を代表する大箱でやるくらいの覚悟がないと駄目だぞ!」みたいにちょっと詰められたんです笑
今考えると初めてのイベントでそんなこと言われて、普通なら驚く話なんですけど当時の自分はそれになんだか触発されて「負けてたまるか。」のような勢いで始めたのがきっかけです。
SHUNSUKE:
最初にそんな言葉を掛けられても正直良く分かんないってなりそうなもんだけど、それで「やってやる!」ってなったんだ笑
SHINOBU:
なりましたね笑
なんかムカついた部分もあって笑
当時、クラブブームみたいなのが少し落ち着きだして、渋谷の大箱とかも平日は集客がガクッと落ちだした時期でした。DJ始めたばかりの学生とかってやっぱり集客力があるので、そういうところも期待されてイベントに声を掛けてもらう頻度が増えていきましたね。SHUNSUKE君と出会ったのもそのイベントでした。現場に出るようになって3回目くらいだったと思います。
SHUNSUKE:
20年以上前、遥か昔のお話だね笑
あの時の事は今でもよく覚えてる。
SHINOBU:
意気込んで練習して現場に臨むと、自分より全然技術的に足りていない人達がメインタイムを回してるのを見て驚きました。ほとんど現場経験のない自分の方が上手いっていうのがすぐ分かるような感じだったんですが、メインタイムでプレイしている彼らは物凄い集客力を持ってたんですね。色々疑問に思ったりもしたんですけど、そんな中でまともに話も出来てDJも出来ていたのがSHUNSUKE君でした、意気投合するの早かったですよね。
SHUNSUKE:
1人だけまともな奴がいる!と思ったのがSHINOBUだった。自分の周りにもそんなに技術が足りていない仲間がいなかったので「現場ってこういうものなの?」ってちょっと拍子抜けしたよね。自分たちの考える優先すべきことが疎かにされている印象を受けた事を覚えてる。
SHINOBU:
とはいえ、僕らもそんなに業界の事、業界の現状を知らない時期でしたしね。今でも技術が一番大切な事に変わりは無いと思ってます。ただ、キャリアを重ねて、今でこそ理解できることもあるけれど、当時はそのパーティの作り方に「???」と感じる事も多かった。お店にお客さんが入らないとパーティを続けていけないのは過去も現在も何一つ変わらないんですけど、お客さんを呼び寄せる方法っていうのは違いがあるわけで。今のようにクラブ遊びはメジャーじゃなかったし、風営法で縛られていた部分もあった。携帯でWEBを調べればどこでどんなパーティがやっているのかすぐわかる時代でも無かったので、パーティの情報はフライヤーから得る事も多かった。業界全体のお客さんの数も減りだしていた中で、自分のパーティを続けるには、個人個人の集客力もとても重要視された時代だったんだなって思います。キャリアスタートは時代の転換期、大きくパーティの作り方が変わる直前だったのかな。
【何があってもヒップホップと音楽から離れられなかった】
SHUNSUKE:
負けず嫌いからナイトクラブの世界に足を踏み入れたわけだけど、好きだけじゃ続けられないのがDJだと思う。長年現場にいる中で続けていけるって思えたターニングポイントとかはあったの?
SHINOBU:
自分の場合は好きだけで続けてきたかもしれないです笑
DJを辞めた友達はこれまでも沢山いたけど、僕の周りの辞めた友人は、引退したら音楽もHIPHOPも聞かなくなる人が結構多かったんです。自分自身、プライベートで色々あった時期もあるので少し現場から離れたタイミングもあったんですが、音楽もHIPHOPも聴き続けていたので辞めるっていう選択肢は全くなかったですね。
SHUNSUKE:
目標みたいなものも持たずにずっと続けてきたって事?
SHINOBU:
目標は一応持ってやってましたね。30歳までにDJ一本で食べていけなかったら「最前線」と呼ばれる場所では続けなくていいのかもしれないっていうのは思ってました。とにかくDJプレイを磨く事、そしてパーティの中で必要とされる事をガムシャラにやったことでその目標は達成できました。周りには食べれていない人もいたので運もあったのかもしれませんが、思い返してみるとストイックな生活してましたね。
SHUNSUKE:
プロのDJとしてやっていく上で悩んだり葛藤ってあった?
SHINOBU:
ありました。だから、自分のやってきたDJをさらに飛躍させるためにはどうしたらいいのかっていつも考えてましたね。MIXCD出したり。色々悩みながらも活動をしていく中で、32,33歳位の頃に渋谷の大箱で続けてた土曜日の帯のDJが一旦無くなりました。帯の仕事っていうのは生活する上でも色々大きなウェートを占めてたんですが、あまり悲観的にならず視点を変えるチャンスだって捉える事が出来ましたね。これまであまりやらなかった事とかもチャレンジしつつ何が出来るのかをもう一度見直せて。みんなやった事が無い事にチャレンジする事にしました。それが「箱DJ」でしたね。
SHUNSUKE:
フリーランスからお店のDJへ大きくスタンスを変えた訳だ。
SHINOBU:
新しく立ち上がったお店の専属DJになりました。結果的には2年位で閉店をしてしまったんですが、濃厚な時間でしたね。今まで関わらなかった人達と一緒に仕事をする事で視野は相当大きく広がったと思います。音楽は元々何でも聴くタイプですが、求められるニーズがヒップホップからオールミックス寄りが中心になりました。ポップスやダンスミュージックもしっかりとプレイする必要があるお店だったので、音楽に対する取り組み方も変わりましたね。この経験は今振り返るとその後の活動にもプラスに働いたなって思います。あとは、お店の中に裏方でヴェルファーレ(注2)で働いていた人とかもいたので沢山の話を聞く事が出来ました。長くはありませんでしたが、箱DJの経験は大きく成長につながったと思ってます。
(注1)新宿歌舞伎町にあったヒップホップクラブ。小箱でありながらも濃厚な内容で多くのファンを持っていた。現在の新宿CASABLANCA
(注2)六本木にあった「アジア最大のディスコ」。日本のダンスミュージックシーンをリードしたと言われている伝説的なクラブ。
プロフィール
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2003年頃より都内にてDJ活動を開始。 主に渋谷・新宿・六本木・西麻布にて年間200本以上のイベントに出演し、数々の国内外のアーティストと共演し経験を積む。 HIPHOPを軸に幅広い選曲とスキルでフロアを盛り上げコントロールするプレイは必見。2000年台半ばから渋谷CLUB HARLEMのレギュラーパーティーの火曜日 REDZONE、水曜日KID STARR、金曜日PUNCH OUTを経て週末、土曜日のMONSTERにレギュラー出演。同時に渋谷Atom、Camelot等都内主要クラブにて活動。2014年より同渋谷HARLEMにて自身が主催のパーティーBUBBLEを立ち上げ3年間マンスリーイベントとして開催。2021年に行われた東京オリンピック、パラリンピックでは競技DJとして参加。現在は西麻布MUSEのResident DJ、またFARM Recordsのディレクターとしてアーティスト楽曲制作を手がけている。