カルチャーを伝えるという大きな仕事。DJ JUSTYの歩んできたキャリアとは?

ブラックミュージックとニューヨークに魅了された男が選んできた生き方。

ライター:DJ SHUNSUKE

パーティーを通して人の心を強く揺さぶり続ける人達がいる。
彼らは何故、今の仕事を選んだのか?
このコーナーではパーティーというカルチャーに関わり続ける演出家たちの過去から現在まで続くキャリアを紐解いていきます。

第九回は独自の感性でNYのカルチャーを発信し続けるDJ JUSTYさんについてです。今回はDJ SHUNSUKEがインタビューを行ってきました!

DJを志したきっかけ

SHUNSUKE:
自己紹介からお願いします。堅苦しいのも嫌なのでいつも通りの口調でインタビューさせてもらいますね。

JUSTY:
DJ JUSTYです。兵庫県出身の40歳です。

SHUNSUKE:
DJ を志したきっかけは何だったの?

JUSTY:
きっかけなんですけど、以前インタビューされてたYAZZさんのやつ見たときに「似てる」と思ったんですよ。コンポを持ってたんですけど、好きな曲を好きな順に並べたりしてました。流れ考えたりしながら。僕が持っていたコンポはDJでいう、カットインやフェードイン、フェードアウトが0.1秒単位で出来る機能があるコンポだったんで、色々編集をしたりしてました。MDのコンポだったんですけど、その作業を4つ年上の兄貴に見られたときに「そういうの好きだったらDJやってみれば?」っていわれたのがきっかけですね。
じゃあ機材を買ってみよう!となったんですが、高すぎて全然手が出ませんでした。当時セットで30万とかしたと思うんです。高校生じゃそんなお金貯めるのも大変でしょ?そしたら兄貴が「テストの順位が学年100位以内に入ったら買ってやる。」っていいだしたんですよ。
で、人生で初めて本気で勉強したんです。僕その頃、320人いる学年の生徒数の中でテストの順位、319位とかだったんですけど、どうしてもDJしたかったから一生懸命勉強しました。人生で一番勉強したんですが、結果250位で全然100位には届かず。勿論、機材は何も買ってもらえませんでした。勉強の仕方がそもそもわからなかったんで。でも、レコードプレーヤーを買って、タワーレコードとかに売ってるレコードを買ったりして遊んだりはしてました。
実際にDJをするための機材をそろえたのは上京してからです。まだ部屋の中に家具も何もないような状態でしたが、まずは秋葉原に行ってコンポとターンテーブル、べスタックスの05というミキサーを買いました。僕は関西人なんでめちゃくちゃ値切った記憶があります。全部で22万くらいで買ったと思いますね。

 

当時HIPHOPクラブでは定番中の定番だったミキサー。分かる人には懐かしの名機。

ヒップホップを初めて認識したのは格闘家の入場曲

SHUNSUKE:
衝撃を受けた楽曲とかってある?

JUSTY:
衝撃というか、ヒップホップって認識した曲はよく覚えてます。中学生の頃かな、テレビでボクシングの試合を見てたんですよ。ジャガー木村?みたいな名前の人の入場でCoolioのGangsta’s Paradiseが流れたんです。めちゃくちゃ悪そうな曲だな~って思ったんですけど、なんかかっこよくも聞こえて。SHUNSUKE君、逆にどんなのに衝撃を受けたんですか?

初めてヒップホップをしっかりと認識した曲がこちら。1995年リリース。

SHUNSUKE:
ヒップホップでいえばThe Notorious B.I.G.の「Hypnotize」や「Juicy」が凄く印象に残ってるかな。

JUSTY:
ニューヨークのヒップホップから入ってるって事ですよね?それって関東だからっていう気がするんです。僕の世代独特なのかもしれないんですけど、関西ってね、ウエストコースト(西海岸)のヒップホップが凄く強かったんですよ、多分。まあ、ニューヨークのヒップホップ聴いてる人もいたんでしょうけど、上京してくるまで正直あんまりThe Notorious B.I.G.の事とかも知らなかったです。周りにはニューヨークを聞いてる友達もいなかった。2PacやSnoop Doggはガンガン聞いてたのに。楽曲の話とは少し違うんですけど「元ネタ、サンプリング」を知った時も大きな衝撃を受けましたね。文化の面白さに凄く惹かれたというか。すごいパワーみたいなものも感じました。

SHUNSUKE:
DJで頑張っていくんだ!って意識してから最初にかったレコードは?

JUSTY:
「俺は初めて買ったレコードとかを質問されるような有名なDJになるんだ!」ってキャリア初期から訳もなく思ってました笑
だからこそ、初めてのレコードはカッコいいものを買おうと決めてたんですよ。それがPETE ROCK & C.L. SMOOTHの「T.R.O.Y.」ですね。ジャケ買いです。あんま良さとかわかってなかったですけど笑

SHUNSUKE:
かっこいい1枚目!

JUSTY:
そう!かっこつけたかったんですよね笑
DJとして持っていなければならない1枚、みたいなのをちゃんと自分で選んで買いたかった。そうなると当時はやっぱり90年代のヒップホップになる。かっこつけたいっていう気持ちもあったけど、割と自然に選んでたのかもしれないです。ターンテーブル買ってからは色々レコード買いました。ヒップホップ以外にも、それこそ浜崎あゆみのカラーバイナルをレコファンっていうレコ屋で激安で売ってたので意味もなく買った事もあります。パンクのレコードとかも持ってますね。今でも家のどこかにあると思う。

1991リリース。ヒップホップ史に燦然と輝く特大クラシック。印象的なワンループ。

音楽学校の講師、そしてニューヨークという場所

SHUNSUKE:
DJで勝負してみようっていう決断をするポイントとかってあったの?

JUSTY:
僕は結構環境に恵まれていて、音楽でご飯を食べるのにはそう時間は掛かりませんでした。音楽学校のDJの講師を長くやらせてもらっていたので。若い頃、SHUNSUKE君もそうだったと思うんですけど、DJとしてギャラ貰ったり、貰えなかったりっていう期間が長かった世代なんですよ。

SHUNSUKE:
割と今の若い子よりもバイトしてた期間は長い世代だよね、多分。思い出したくもないけど。

JUSTY:
その音楽学校の講師っていうのも変なきっかけでした。講師についての説明会を受けに行ったのに、行ったら机の上に契約書が用意されてて笑
その後、学校を一周させられて校内紹介みたいなのをされました。まるでもう働く事が決まっているかのように。下町にあった学校だったからなのかパンチパーマの子とかもいて「ここって本当に東京なのかな?」というような雰囲気も漂ってましたね。で、スタッフの方から「こんな雰囲気の学校なんですけど、やれますか?」って聞かれたんです。契約書も出されてるし、もうなんとなくその場でサインして次の日から先生になってました。なので、音楽で食べていくっていう事に関しては結構ぬるっとした感じで始まりました。
年齢的にはあまり変わらない子達にDJを教えていましたね。最初の頃は後輩に教えてるような感覚もあって。懐いてくれる子たちも多かった。突っ張ってる子達が多かったんですけど、学園祭とか体育祭みたいな催し物の準備を終電くらいまで一生懸命に頑張る生徒達でした。クラブDJをしながら講師をしていたので、終電まで生徒たちと一緒に催し物の準備をして、始発でまた学校行って、みたいな生活をしていた時期もあります。

SHUNSUKE:
今でも良く覚えてるのは当時世界的なスポーツブランドとかと大きなイベントを一緒にやっていて、終わった後にJUSTYが「学校行くからもう帰る」ってみんなにいったら後輩たちが「JUSTYさんって学生なの!?」ってザワついた事かな笑

NIKE主催のパーティ。JUSTY、SHUNSUKE共にとても大変だった記憶が残るパーティ。

今はなきインターナショナルクラブ六本木Feriaで行われていたパーティ。DJ YUMA氏の名前も。

JUSTY:
12年間働きました。ただ、もう一つのターニングポイントとしては、その講師を辞めた時ですかね。色々DJの仕事も沢山させてもらってましたけど、一旦全部辞めてニューヨークに行く事にしました。最初は10日とかで行ってたんですけど、そのうち1か月になって、渡航ビザの限界3か月とかに変わっていって。2019年頃には3か月が基本になってました。何か得られるのか、何も得られなかったらどうしようかなーとかも思いながらも滞在していました。声を掛けられるのを待つんじゃなくて、自分から色んな場所にDJさせてほしいってお願いしに行ったり。色々な経験をしましたね。今でこそあっと言う間だったと思いますけど、当時はその時間が精神の時の部屋に感じるくらい長く感じました。SHUNSUKE君、酔っぱらって、しょっちゅう電話くれてましたね。13時間違うから日本は真夜中でもニューヨークは昼間で。爽やかに散歩してるときに酔っぱらいからテレビ電話が掛かってきたの覚えてる。

SHUNSUKE:
パーティ中に「元気かな~」とふと思い出して、いたずら電話をしてたね笑

JUSTY:
ニューヨークに何度も足を運んだことが今に繋がってるんでやっぱりターニングポイントだったのかなと思います。

ニューヨーク滞在時のDJ風景

ニューヨークに滞在した期間中はとにかくチャレンジの毎日

自身が経営するチキンオーバーライス専門店「J’s Vendor」

SHUNSUKE:
原宿でチキンオーバーライス専門店「J’s Vendor」を経営してるけど、これのきっかけはなんだったの?

JUSTY:
ちょくちょくニューヨークに行ってるときから凄く好きな食べ物がチキンオーバーライスでした。本当に毎日のように食べてて。現地の友達に「そんなの毎日食べてたら死ぬぞ!」っていわれるくらい食べましたね。それでも飽きなかったんですよ。そうこうしているうちにコロナが始まって。コロナが蔓延してた頃っていつニューヨークに行けるかどうか分からなかったじゃないですか、もう一生行けないんじゃないっていう気持ちさえあったし。あれだけ行き来してたニューヨークにいけない、アメリカに行けないってなった時に恋しかったのがチキンオーバーライスでしたね。行けないなら自分で作るしかないなと思って始めたのがきっかけです。なつかしさを感じたくて。元々料理は凄く好きなので色々試してみたんですけど、ある時「これだ!」っていうのが出来て。ニューヨークでチキンオーバーライスを食べた事がある人達にまず食べさせたいっていう気持ちが湧き出たんですね。

SHUNSUKE:
現場に持ってきてくれたのを覚えてる。「今から行くけど食べ物持って行っていい?」って。

JUSTY:
みんな美味しいって喜んでくれて。コロナ禍で世間がコンテンツを求めてる中でもあったんでしょうけど、チキンオーバーライスを作ってるって話したら色々なお店から「うちで売ってよ!」っていう声がどんどん増えてきて。最初はゴースト・レストランみたいにして進めていこうと思ってたんですけど「この場所を店舗として使ってみませんか?」っていう話をいただいて。それが今の店舗に繋がっていきました。2年ちょっと前の話ですかね。色々なご縁で、昨年は名古屋にも店舗を出す事が出来ました。キッチンカーとかも徐々に話が進んでいるので、また皆さんにお知らせ出来たらなと思ってます。

カルチャーを伝えていくという大きな仕事

SHUNSUKE:
これからの日本のシーンに願う事って何かありますか?

JUSTY:
偉そうなことは言えないんですけど、中堅といわれる立場になって思うのは「ネガティブ」ではなくて「ポジティブ」な業界になってほしいです。僕とかSHUNSUKE君が若い頃ってDJで稼ぐ金が全てで、他に仕事しちゃいけないって雰囲気もあったじゃないですか?何で他にも仕事してるの?みたいな。それはそれで全然良いと思うし否定する気はさらさらないんですけど、そこを強制しちゃうとなんかネガティブに感じちゃうなって。
僕らが次の世代に伝えていくべきはカルチャーっていう部分だと思うんです。DJやラップ、ダンスやグラフィティ以外にもヒップホップカルチャーを伝える方法って沢山あると思ってます。ヒップホップに関わる人達がアパレルや飲食をやっていたって全然かまわない。アメリカでは当たり前にそれが行われてるし、DJをきっかけにより大きなビジネスをして地域に還元したりしている人間も沢山います。日本でも、DJだけでビジネスを完結させるのではなく、そこからより大きなビジネスに広げる事を当たり前に出来るようになると良いなとは思いますね。僕の場合はそれがチキンオーバーライスな訳で、これを通してヒップホップやアメリカのカルチャーをより多くの人に知ってもらえたらいいなと思います。カルチャーを伝える活動の一端を担う事が少しでもできたら本望ですね。

上手くまとまりましたかね?笑

SHUNSUKE:
完璧な締めです。素晴らしい考え方だと思う。良い事言いますね笑
今日は長い時間本当にありがとうございました!

J’s vendor
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J’s vendor nagoya
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住所:〒460-0008
愛知県名古屋市中区栄4-14-15 伊藤義ビル 1F
電話番号:090-8132-0638

プロフィール

  • DJ JUSTY

    DJ JUSTY

    キャリア序盤から東京を代表するCLUBでレギュラーを獲得。有名スポーツブランドとのコラボイベントや多くのラッパーのバックDJもつとめてきた。2016年にはニューヨークに短期滞在しCLUBやラジオ出演など多忙な日々を送ると、所属DJクルー「BKSD」で2度にわたってツアーを行い各地で好評を得た。また近年世界的なムーブメントとなっているラテンミュージックに焦点を絞ったミックスCD「BEST OF LATIN」を毎年リリースしている。

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