パーティーを通して人の心を強く揺さぶり続ける人達がいる。
彼らは何故、この仕事を選んだのか?
このコーナーではパーティーというカルチャーに関わり続ける演出家たちの過去から現在まで続くキャリアを紐解いていきます。
第十四回はヒップホップの現場を代表するフィメールDJの1人、DJ SAORIさんのキャリアについてお送りします。
「DIG!かばんの中身」でもお馴染み、DJ SHUNSUKEとLeeがインタビューを行ってきました。
SHUNSUKE:
まず自己紹介をお願いします。堅苦しいのも嫌なので普段通りの会話形式で話していきますね。
SAORI:
DJのSAORIです。群馬県高崎市出身です。
最初はダンスがしたかった
SHUNSUKE:
DJを志したきっかけは何だったの?
SAORI:
元々、ブラックミュージックが大好きでよく聞いていました。実は最初はDJではなく、ダンスがしたかったんです。自分の好きな音楽を聞いて踊れたらカッコイイなって思ったのがきっかけでした。ただ、当時地元ではダンスをしている友達はいなかったし、ストリートで踊ってるような人もいませんでした。ダンススクールはあったので見学しに行ってみたんですけど、既に出来上がってる生徒さんの輪の中に溶け込めないような不安が大きくて。スクールに入ってもいないのに疎外感を感じたりしてました笑
それでダンサーはなんとなく諦めちゃったんですよね。でも、ブラックミュージックそのものはやっぱり好きなんで色々調べるんですよ。そしたらDJっていう存在を知って!それまでの「好きな曲を聞いて自分が躍る」ではなくて「自分の好きな曲で躍らせよう」って思うようになりました。これだけブラックミュージックが好きなんだから、周りにも知ってもらいたいっていう気持ちもありましたね。そこからDJについて必死で調べました。まわりにDJもいなかったし、情報量も少なかったんですけど、色々調べていくうちに「groove(※1)」っていう雑誌を見つけたんです。この雑誌で本当に沢山勉強しました。DJするのに必要な機材が書いてあったので最初は中古で購入して、DJ HASEBEさんがミックスの仕方を図解で説明してくれていたコーナーがあったので、それを見ながら練習したりしましたね。ただ、クラブとかにもあまり行ったことも無かったので本当に最初は全部手探りでした。
SHUNSUKE:
懐かしい雑誌の名前が出てきた!「groove」はDJの部屋コーナー特集とかもあって真似したりしてました笑
DJとかクラブミュージックに特化した雑誌だったね。実際に現場に出たのはいくつくらいだったの??
SAORI:
実際に現場に出るようになったのは20歳過ぎてからだったと思います。今の若い子達にくらべると遅いかもしれない。機材も高いしレコードも買わないと曲が掛けられないし、中々ハードルが高いなって感じてましたね。
メインタイムにDJをするためには?悩んだ末の決断とは。
SHUNSUKE:
中々情報を得られない中でキャリアがスタートしたわけだけど、何もない状況からクラブでDJが出来るようになるまでどういう動きをしてたの?何かターニングポイントってあった?
SAORI:
地元にもクラブはあったので、とにかく足を運びました。お店の人とお話して仲良くなって色々な人を紹介してもらって「DJさせてください!」って売り込みもしました。チャンスをもらって最初はオープンとか早い時間とかプレイさせてもらって勉強する日々でしたね。オープンをこなせるようになると少しずつ深い時間をやるようになるんですけど、やっぱり実力を認めてもらえないと良い時間なんてやらせてもらえないし、メインタイムまでは簡単にはたどりつけなかったです。師匠のような人がいる人はチャンスをもらえてたりしたのは見てましたけど、私はDJの師匠はいなかったし苦労しました。「どうしたらメインタイムでDJ出来るのか?」を考えるようになって、結果、一念発起してパーティオーガナイズをしました。演者全員女の子、毎月違う子がメインタイムでDJするフィメールパーティでしたね。当時は異色だったかなと思います。フライヤーもアーティスト写真をしっかり載せたものにしたんですけど、当時そういうフライヤーって全然なかったし、キャバクラのチラシにも見えたのかキャパシティ300人くらいのお店に物凄く沢山の男性が押し寄せた事もありました笑
色々苦労はありましたけど、やってよかったって今では凄く思うんですよね。やっぱりメインタイムのDJを人に聞いてもらえることで「あ、あの子DJしっかりプレイ出来るんだ。」って分かってもらえたっていうのは大きかったです。そういう意味ではイベントをやったこともターニングポイントだったのかもしれないんですけど、一番はそのイベントで「人を踊らせること、楽しませることって楽しい!」っていう感覚を得たのが一番のターニングポイントだったかなって思います。この気持ちや感覚が今もDJとしての自分を動かし続けてますね。
エリア独自の音楽やカルチャーに衝撃をうける
SHUNSUKE:
衝撃を受けた楽曲ってあったの?
SAORI:
この一曲っていうよりも、ウエストコースト(※2)とサウス(※3)のヒップホップを聞いたときに本当に強い衝撃を受けました。それまでもブラックミュージックは聞いてましたけど、ウエストコーストとサウスの音楽に出会ってからは音も凄く独特だし、その曲の振り付けのようなダンスだったり、ファッションとかも含めてエリア独自のカルチャーみたいなものにも凄く影響をうけました。興味がどんどん湧いてきて、サウスだけ、ウエストコーストだけ、っていうイベントにも出演したこともあります。
SHUNSUKE:
サウスはDJの間では一気に広まったけど日本人のお客さんには中々浸透しなかった記憶がある!
SAORI:
私の地元の群馬でもそうでした。ウエストコーストは歴史的に古くからあるので少し癖があってもウケたんですけどサウスは本当に最初ダメで。そんな群馬に、ある時サウスでメチャクチャ踊る女の子が現れたんですよ!色々話を聞いたら、その子は米軍基地のある福生(※4)で覚えたって教えてくれたんです。自分で実際に福生に遊びに行って、自分の目で確かめてみて。外国人のお客さんがみんな同じフリで踊る姿を見た時に「やっぱり私、こういう曲で人を踊らせたい!」ってはっきり確認できたというか。ニューヨークのヒップホップも勿論好きなんですけど、色のある曲に本当に影響を受けたなって思います。
上京、六本木FETTIとの出会い
SHUNSUKE:
地元で福生に遊びに行ってるお客さんと出会うっていうのは中々凄い事だね。東京に出てきたのはその後??
SAORI:
その後です。サウスが盛り上がり始めた時期はまだ東京に出てきてませんでした。地元でDJを頑張ってましたけど、同じような価値観を持つ人はそんなに多くなくて。見てきたものを地元でアウトプットして、浸透させたいっていう気持ちもありましたけどパーティの理想っていうのは人それぞれ違うものだし、地元には地元のシーンもあるし。ただ、自分の本当の理想を追ううちに「東京に出た方が好きな音楽がもっとやれる。」っていう結論が出ました。それで上京を決めたっていう感じです。
SHUNSUKE:
自分の好きな音楽をやるために上京を決めたんだ。凄い決意。
SAORI:
ただ、東京に出てきても知り合いもそんなにいないし、すぐにDJ出来る場所も多くはなかったです。なので、ひたすら勉強の為にいろんなクラブに行きました。とにかく一生懸命動いて自分を知ってもらって。ある時六本木のクラブに遊びに行ったときに思い切って「私もやらせてもらえませんか?」ってお願いをしたんです。その結果、良いんじゃないかっていう評価をいただいて。それが六本木FETTI(※5)だったんです。面白いお店で、時間帯によってはお客さんが全員外国人だけになったり、日本人だけになったりとか。刻々と変わる空気感に対応すべきことも多かったので凄く色々な事を学びました。東京に来てから初めてのレギュラーってFETTIだったので本当に印象深いですね。FETTIでの活動をきっかけに大きく東京での活動が広がっていったなって思います。
⇧筆者とDJ SAORIさんが初めて一緒にDJをしたのは恐らくこちらのパーティです。今では毎月一緒にDJをしています⇧
後編へ続く
(※1)1994〜2015年まで、長きにわたりDJ/クラブについてを世間へ発信し続けた専門誌
(※2)アメリカ西海岸
(※3)アメリカ南部
(※4)東京都西部に位置する都市。在日アメリカ空軍横田基地が市域東側の平坦部、約3分の1を占める。
(※5)六本木に存在した国際色豊かなブラックミュージッククラブ。現在は埼玉県所沢市に場所を移し営業中。