ヒップホップ好きのスポーツ選手や文化人のキャリアや仕事について全4回に渡ってインタビューしていく「あの人も実はヒップホップ」。今月のゲストは神奈川県金沢区で和菓子屋「たんの和菓子店」を開かれている丹野 耕太さん、丹野 ひかりさんご夫妻にヒップホップキャリアをお伺いしました。第2回の今回は耕太さんの学生時代から和菓子職人としての修行時代、そして初めて聴いたヒップホップについてお話して頂きました。
前回の記事はこちら→ DJから屏風作りへ。異色の職人、片岡 孝斗とは?
ヒップホップ好き和菓子職人・丹野耕太のキャリアとは?
レペゼン:
横浜市金沢区で和菓子屋「たんの和菓子店」を開かれている丹野耕太さんですが、元々どういった経緯で和菓子職人になられたのですか?
丹野 耕太:
元々は調理師に興味があって、高校卒業後に調理の専門学校に行こうと思ってたんです。
ただ進路を決めるタイミングで父親が他界してしまい、学校どころじゃなくなってしまって。ちょうどその時に横須賀で和菓子屋をやってた叔父が「うちで働かないか?」と声をかけてくれて、お手伝いするような形で、業界に入った感じですね。
レペゼン:
そうだったんですね。
そこから職人として修行していったと?
丹野 耕太:
そうですね。最初はあんこ作りからでした。あんこが作れなきゃ和菓子職人ってできないので。
一般的には、初めのうちはお菓子作りに関わることはさせてもらえないところが多いんですが、幸いにも最初から色々させてもらえて。10年ぐらいかかって、お菓子作りについて覚えました。
レペゼン:
辛いなとか、辞めたいとかはなかったんですか?
勝手なイメージですが、職人の世界って上下関係も厳しいし、お給料とかも低くて、大変なのかなと。
丹野 耕太:
なかったですね。やっぱり和菓子作りが楽しかったんですよね。
お給料もその年代でいうと、それなりには貰えていたと思います。
ただしんどくなっちゃったのが、その和菓子屋さんが事業拡大するタイミングで、僕が工場長を任せてもらった時。その時は結構大変でしたね。
レペゼン:
工場長って大変なイメージがあります。
丹野 耕太:
工場長になってから、和菓子を作るのが楽しくなくなっちゃったんです。
それ以前は個人経営の和菓子屋で、自分が作ったものを売ってる感じがあったんですけど、工場長になってからは大量生産になっちゃって。もちろんめちゃくちゃお世話になった場所なんで、葛藤はあったんですが、やっぱりしんどかったですね。
丹野 ひかり:
23時に帰ってきて、0時半に出勤したりしてたよね。
帰ってくる意味あんのかなっていう。
レペゼン:
それは結構きついですね…
工場長は何年くらいされたんですか?
丹野 耕太:
3年くらいですね。で、工場長を続けようか悩んでいた時に、たまたまお付き合いのあった材料屋さんから横浜の和菓子屋さんの引き継ぎの話を頂いたんです。
老舗和菓子屋の暖簾を引き継ぐ
丹野 ひかり:
横浜の金沢区でずっと和菓子屋さんをされているご高齢のご夫婦が、暖簾を畳むので引き継げる人を探しているというお話で。跡継ぎではないんですけど、譲っていただく形ですね。
レペゼン:
へー!
それって結構あることなんですか?
丹野 ひかり:
あんまり聞いたことないですね。たまたま色んなタイミングが重なりあったというか。
当時、夫も工場長で休みなく働いていて、子供もできた時で。このままでいいのかなって悩んでた時に、その話を頂いたんですよ。
丹野 耕太:
じゃあやってみようっていうね。
丹野 ひかり:
名前を変えてる暇もないし、お店を改装してる暇もない。そのまま本当に道具も全部もらって、そのご夫婦達が築き上げた和菓子屋をそのままやるっていうのが始まりなんです。
レペゼン:
そうなんですね。
ある意味、スタートとしては始めやすかった?
丹野 耕太:
そうですね。
ただやっぱり自分達の色を出す前に、そのご夫婦がやっていた店の評判を落としちゃいけないっていうのがまずあって。
丹野 ひかり:
最初はそれで必死でしたね。ご夫婦がお店をたたむまでに修業と言いますか。そのお店の味とかを教えてもらうために、二人で毎日通って、常連のお客さんとかも紹介していただいて。そこからが始まりですね。
丹野 耕太:
やっぱり最初は味が変わったとかも言われましたね。ただ二人で工夫していく中で、次第に常連さんも認めてくれて。そこから少しずつ、内装を変えたり、音楽を流したりして自分たちの色も出していったんです。
90sバンドサウンドからヒップホップへ。ヒップホップ好き和菓子職人の音楽ライフ
レペゼン:
ヒップホップカルチャーとはいつ頃出会ったんですか?
丹野 耕太:
地元が横須賀で、米軍基地がある町なので、もともと海外のカルチャーが身近で。
クラブとかは特に行ってないんですけど、カルチャーとしてBMXとかスケボー、DJとかひと通りはやってました。
どれも身につかないんだけど笑
かっこいいものはやっちゃうっていう。
レペゼン:
やっぱ横須賀ってそうなんですね。もともと音楽は好きだったんですか?
丹野 耕太:
最初はずっとロック聞いてて。Rage Against the Machine(レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン)とかRed Hot Chili Peppers
(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)あたりですね。Bad Brains(バッド・ブレインズ)とかFunkadelic(ファンカデリック)のサウンドも好きでした。そしたらだんだんその時期にラップロックみたいなジャンルが出てきて。
そこで知ったのが、Anthrax(アンスラックス)と Public Enemy(パブリック・エネミー)がコラボしていた「Bring The Noise」。多分それが初めて触れたラップだったと思います。とにかく超かっこいいなと。
レペゼン:
良いですね。確かに90年代から2000年代初頭にかけてラップロックのムーヴメントありましたね。
丹野 耕太:
そうそう。そこからパブリック・エネミー聴き出して。
ちょうどその辺でBeastie Boys(ビースティ・ボーイズ)の「Sabotage」とか、あと映画『Judgment Night』のサントラでCypress Hill(サイプレス・ヒル)を知ったりとか。
『Judgment Night』・・・1993年公開。シカゴを舞台に、若者たちがゲットーでの事件に巻き込まれていく様子を描いたアクションスリラー。サウンドトラックを当時の人気ラッパーであった Cypress Hill や House of Pain、Boo-Yaa T.R.I.B.E.などが担当している。
丹野 耕太:
で、Wu-Tang Clan(ウータン・クラン)のファーストが出たばかりの時で。
僕、来日公演見に行きました。
丹野 耕太:
ODBヤバかったです笑
多分30分から1時間ぐらいずっと1人でラップしてました笑
レペゼン:
来日コンサートでの伝説は聞いてますが、相当ヤバかったみたいですね笑
そういうところから濃いヒップホップにもハマっていくみたいな感じですか?
丹野 耕太:
そうですね。ただ特に印象に残っているのはやっぱりAnthrax & Public Enemy の「Bring The Noise」ですね。メタルとHIPHOPってこんな形で融合するんだと思って。やっぱラップってすごくリズミカルですし、この曲のサウンド的にも結構攻撃的じゃないですか?やっぱり若い時って攻撃的なもの欲してるんで笑
レペゼン:
今は落ち着いてらっしゃいますけど、そうだったんですね笑
次回は新店舗を構えるまでのお話、そしてお店を立ち上げる時に励まされたラップソングについて聞いていくよ!お楽しみに!
プロフィール
-
丹野 耕太・ひかり
横浜市金沢区で和菓子店「たんの和菓子店」を営む。夫・耕太さんは高校卒業後、横須賀の和菓子屋で約10年間修行、その後工場長を務めた後に独立。ひかりさんと共に金沢区の老舗和菓子店の店舗を引き継ぐ形で開業する。その後、現在の場所に移転し「たんの和菓子店」をオープン。モダンなグレートーンの壁やカウンター、そして温かみのある木製のインテリアやアンティークといった従来の和菓子店のイメージを一新する内観に加えて、ショーケースに並ぶ色とりどりの季節の上生菓子と、耕太さんが選ぶジャジーなヒップホップサウンドが訪れるお客さんの五感を楽しませる。