靴職人のキャリアを極めるため、日本を飛び出しオーストリアへ。奮い立たせてくれたのはヒップホップ

慣れない海外生活。三澤さんを勇気づけたのはあの伝説の一曲!?

ライター:TARO

ヒップホップ好きのスポーツ選手や文化人のキャリアについてインタビューしていく「あの人も実はヒップホップ」。今月は日本を代表する靴職人の一人であり、スパイク・リーやエイドリアン・ブロディなどへの製作実績を持つ、靴職人&アーティスト・三澤則行(みさわ・のりゆき)さんに全4回に渡って、お話をお伺いしました。

前回までの記事はこちら→ 世界で活躍する靴職人、三澤則行のヒップホップなキャリアとは?

靴作りのため、日本を飛び出し海外へ


【三澤さんの作品】

レペゼン:
大学卒業後は浅草の工房で修行されていたわけですが、いつ頃から独立を意識されていたのでしょうか?

三澤則行:
28歳ぐらいの時ですね。ライムスターの宇多丸さんと出会って、自分の中で大きく世界が広がったのもあって。その時期に色々と考えて、店を構える前に、ヨーロッパに修行しに行くことを決めたんです。

レペゼン:
なぜ日本ではなくて海外だったんですか?

三澤則行:
自分の世界を広めるためですね。なにせ1回も飛行機に乗ったこともない、海外にも行ったことないっていう世界観で生きてきて。靴職人としても修行を始めてからずっとコピーっていうか、既存の型を上手に作るってことをやってたので、オリジナルがなかった。

レペゼン:
なるほど。

三澤則行:
それで何とかしなきゃなってことで、ヨーロッパに行って、靴作りの技術も含め、いろんなことを経験して、自分のオリジナルを追求しようと。

紹介してもらったはずの工房で、あやうく門前払いに!?

【ウィーンの工房で】

レペゼン:
ヨーロッパのどの国に行かれたんですか?

三澤則行:
オーストリアです。ウィーンに住んでました。靴作りの隠れた聖地と言われていて。
日本での修行時代に仲良くなっていたドイツ人の方に、現地の工房への紹介状を書いてもらって。

レペゼン:
良いですね!じゃあその工房に行って働かせてもらうみたいな?

三澤則行:
そのつもりだったんです。
ただ行ったら行ったで紹介状の効果があんまりなくて。
「君、誰?」みたいな感じで笑

レペゼン:
えー!笑

三澤則行:
ずいぶん話が違うなと笑
それでイチから自分の能力をその場で見せて。
一応合格ってなってスタートって感じでした。

レペゼン:
じゃあいわゆる一番底辺の見習いからスタートな感じですか?

三澤則行:
そうですね。また一からのスタートでした。

レペゼン:
生活費はどうしたんですか?

三澤則行:
修行時代に貯めていた貯金があったので、とりあえずそれでやりくりしてました。
ただ最終的に自分の能力をわかってもらえるようになってからは、工房の先輩や周りの方がなんだかんだ面倒見てくれるようになりました。

レペゼン:
腕一つで切り拓いていったんですね。
言語の部分で苦労はなかったんですか?

三澤則行:
ドイツ語だったんですけど、大学の第2外国語でドイツ語をやってたので、なんとかやりたいことは伝えられていました。あとは見習いをしながら現地で語学学校にも通って、徐々に慣れていった感じです。

レペゼン:
ウィーンにはどのくらいの期間いらっしゃったんですか?

三澤則行:
2年弱です。その間、その工房とは別にファッション系の靴デザイナーさんのところでもお手伝いさせてもらったり、休みの日はいろんな美術館に通ってアートの勉強をしていました。その時期にヨーロッパで得た感覚は自分の作品作りのルーツになってますね。

自分を奮い立たせてくれたのは「BLAST」最終号のために作られた伝説のコラボ曲

レペゼン:
ウィーンでの修行時代に自分を奮い立たせてくれたラップソングはありますか?

三澤則行:
いろいろあるんですけど、やっぱり「BLAST」の休刊が決まったときのあの曲ですね。付録のCDに入ってた「未来は暗くない ~The Next」 です。

レペゼン:
アツイです。なぜこの曲なんですか?

三澤則行:
これは当時の若手の中で最も注目されていたラッパーの方達、ANARCHY、サイプレス上野、COMA-CHI、SIMON、SEEDA​​といった方々のコラボ曲なんですが、このラッパーの方達は日本語ラップシーンでの第2世代にあたると思っていて。

レペゼン:
なるほど。

三澤則行:
ただ当時、日本語ラップって業界的にはかなり下火になっていた状態で。それこそBLASTが休刊になるぐらいだったので。
その感じが靴業界とすごく似てるなと感じたんです。

レペゼン:
靴の業界にも世代みたいなものがあって、下火の時期だった?

三澤則行:
その頃の靴業界も、第1世代の盛り上がりの後で、当時のラップシーンと近かったんです。ちょっと盛り下がってる状況というか。なので僕が独立を視野に入れ始めたときぐらいは、状況めちゃくちゃ悪いじゃんみたいな。

レペゼン:
そうだったんですね。

三澤則行:
第2世代である「未来は暗くない」に出てるラッパーの方達って、いわゆる第1世代、さんピン世代の後の世代で。当時はこれからみたいな感じだったと思うんですよ。なのですげぇ親近感があって。

レペゼン:
間違いないですね。

三澤則行:
僕もここにいるメンバーの1人なんだなみたいに勝手に思ってました。
リリックの内容もポジティブなラップをそれぞれしてて。それがかなり自分の状況と重なって、すごく元気をもらったんです。特にCOMA-CHIのラップはやばかったっすね。

レペゼン:
オーストリアでの修行時代は、それをずっと糧にしてたんですね。

三澤則行:
めちゃくちゃ糧にしてました。
この曲には本当に助けられましたね。

帰国後、東京に工房を構えるも、なかなか人気が出ない日々

【ウィーンの工房の仲間たちと】

レペゼン:

オーストリアでの修行を終えて帰ってこられた後は、ご自身の工房をオープンされるんでしょうか?

三澤則行:
そうですね。帰国後、30歳の時に東京に工房を構えたんですが、なかなか最初は評価されなくて。靴のアートとか作っても、業界からは変なことやってると思われてましたね。

レペゼン:
状況が変わったきっかけは何だったんでしょうか?

三澤則行:
やはり2017年のカンヌ映画祭への出展ですね。
カンヌで全てが変わりました。

なかなかブレイクのきっかけを掴めずにいた三澤さんを救ったのは、まさかのスパイク・リー監督との出会い!?次回はカンヌ映画祭への出展、そしてスパイク・リーへの靴製作秘話を聞いていくよ!お楽しみに!

プロフィール

  • 三澤則行(みさわ・のりゆき)

    三澤則行(みさわ・のりゆき)

    1980年生まれ、宮城県出身。幼い頃から母親の趣味である美術画集に囲まれて育ち、工作や絵画に没頭した少年時代を送る。大学時代はヒップホップ音楽に没頭し、プロのDJを目指した。この頃に培ったヒップホップ・マインドは現在の活動、作品製作にも大きく影響している。大学3年生のとき、地元のとある革靴店との偶然の出会いから靴づくりの道に。靴職人として東京・浅草とオーストリア・ウィーンで10年間修業した後、2011年に自分の工房兼靴教室を東京・荒川に構える。2017年にはフランス・カンヌ映画祭で展示会を開催。日本とヨーロッパで培われたアートの感性、そして精緻な技術によって生み出される造形美はまさに唯一無二であり、スパイク・リーやエイドリアン・ブロディなど世界的なセレブリティへの制作実績を持つ。 近年はアメリカで開催される国際的な靴のコンクール「GLOBAL FOOTWEAR AWARDS」で2年連続で受賞するなど、今世界で最も注目される靴職人の一人。