DJパン屋・蔭山充洋。米軍のラップに衝撃を受け、ヒップホップにハマった青春時代とは?

神奈川県・三浦市のパン屋「充麦」のオーナー、蔭山さんのヒップホップキャリア

ライター:TARO

ヒップホップ好きのスポーツ選手や文化人のキャリアや仕事について全4回に渡ってインタビューしていく「あの人も実はヒップホップ」。今月のゲストは、神奈川県 三浦市のパン屋「充麦(みつむぎ)」のオーナー、䕃山充洋(かげやま・みつひろ)さん。横須賀のクラブでDJとして活動、その後ヨーロッパを放浪し、自身で生産した小麦を使ったパン屋をオープン。異色の経歴を持つ蔭山さんのヒップホップ・キャリアについて伺いました。Vol.2の今回は横須賀の米兵が通うクラブでのディープでリアルなヒップホップとの出会い、そしてパン作りとヒップホップの共通点について話して頂きました。

前回の記事はこちら→ DJ、ヨーロッパ放浪、そしてパン屋へ。異色のキャリアを持つパン職人、蔭山充洋とは?

パン屋「充麦」は“ライブハウス”  DJパン職人が語るヒップホップとパン作りの共通点

レペゼン:
DJとかヒップホップと、パン作りの共通点ってありますか?

蔭山充洋:
僕の店で言うと“ライブ感”ですかね。

レペゼン:
ライブ感?

蔭山充洋:
僕、自分の店がライブハウスだと思ってるんです。
うちの店、「充麦」ってオープンキッチンなので、お客さん側からスタッフがパンを作ってるのが見えるんですね。

蔭山充洋:
例えば大きいホールで、目の前でオーケストラが演奏して音楽を聞くっていうことがあるじゃないですか?観客はオーケストラというフィルターを通して音楽を感じる。それと、パン屋がお客さんの目の前でパンを作っていて、お客さんがそのパンを選んで食べるという行動は結局一緒で、どっちもライブハウスなんじゃないかなって。

レペゼン:
確かに。
DJやヒップホップのクラブもそうですもんね。

蔭山充洋:
そうなんです。
僕は、スタッフに「俺たちはバンドだ」っていつも言うんです。
毎日ここで「パンを作る」というライブをやってるんだっていうのをスタッフには言ってますね。

レペゼン:
めっちゃ良いですね。

蔭山充洋:
結局、音楽もパンも同じなんです。
あと一つ思うのは、僕の中の美学みたいな感じなんですが、
“すぐになくなるもの”がいいんですよね。

レペゼン:
どういうことですか?

蔭山充洋:
すごい苦労して作って、すぐに消えてなくなるものが良いんです。
例えば音楽って結構生き物というか、流行とかその場の雰囲気だったりもあったりしますよね。もちろんDJもそうで。DJのパフォーマンスってその場の一瞬の楽しさを作るためにあるわけじゃないですか?でも準備には選曲や練習などものすごく時間がかかる。

レペゼン:
確かに。

蔭山充洋:
パンも一緒で。
今で言うと、24時間ぐらいかけて作ったパンも、食べると一瞬で終わっちゃうんです。そういう、「すごい一生懸命作り上げたものが、一瞬でなくなる」というのがすごい好きなんです。食べて、一瞬、あー美味しかった。それで終わりっていうのが良いなって思ってて。

レペゼン:
良いですね。
そこも含めて「充麦」はまさにライブハウスなんでしょうね。

蔭山充洋:
そうですね。
だから音楽もガンガン流すし、お酒も売ってます笑

レペゼン:
最高です笑

音楽とパンを愛する職人・䕃山充洋の原点とは?


バンドをやっていた当時の蔭山さん

レペゼン:
蔭山さんは、もともと小さい頃から音楽が好きだったんですか?

蔭山充洋:
僕、7つ離れた姉がいるんですけど、その姉が洋楽好きで。姉の影響で小学校の時からマイケルジャクソンとかジョージ・マイケルとかをちょこちょこ聴いてました。ただ中学になると結構ロックにハマってバンドをしてたんです。

レペゼン:
90年代ですし、バンドブームですもんね。

蔭山充洋:
そうそう。Metallica(メタリカ)とかも最盛期で。スラッシュメタルですよね。あとはNirvana(ニルヴァーナ)とかグランジ系も流行ってて。なので高校生の時は友達とバンドやってました。で、将来的には音楽をやりたいなとは思ってたんです。

レペゼン:
なるほど。どの辺りからヒップホップに興味を持ったんですか?

蔭山充洋:
高校卒業後、音楽の専門学校に入学したんですが、同時に横須賀でバーテンの仕事を始めたんです。
それが米軍基地の目の前で。もう30年くらい前ですが、当時の横須賀って、黒人と白人でお店が分かれていて。

レペゼン:
90年代当時の日本でもそうだったんですね。

蔭山充洋:
今では緩和されているんですが、僕がいた92〜93年頃は、お店が建っている地区も分かれてて。通りの端っこが黒人、メインの通りが白人みたいな感じでした。

レペゼン:
当時の日本でも、そこまで明確に人種で居住区が分かれていたとは…

蔭山充洋:
そうなんです。そこで僕は、黒人の米兵が通うDJバーみたいなお店で働いてて
クラブでもあり、半分バーでもありみたいな感じだったんですけど。お客さんはほとんど黒人の米兵か、米兵好きな日本人の女の子しかいないようなところでしたね。

レペゼン:
なるほど。
そこでヒップホップにハマっていったと?

米兵が通うバーでのディープでリアルなヒップホップ体験

米軍を労うために訪れたLAのラップグループ、DOVE SHACKのメンバーたちと

蔭山充洋:
そうなんです。そもそも僕はロックバンドをやってたんで、ラップって全然聞いてなくて。
その頃の僕が知っているラップ、ヒップホップって言ったらMCハマー、ヴァニラ・アイスとかその辺ぐらい。

レペゼン:
90年代ですね。

蔭山充洋:
けど働き始めた頃に、ラップってすげえなって思ったきっかけがあって。

レペゼン:
どういったきっかけだったんですか?

蔭山充洋:
ある時、そのバーにいた先輩のDJの方がワサワサとコードとマイクを用意して、「はい」って目の前の黒人の米兵に渡したんです。そしたらいきなりそいつがラップしだして。

レペゼン:
おぉ!!

蔭山充洋:
で、次はDJがビートをかけ始めて、そいつも今度はビートに乗せて、ラップしだして。
そしたら、お店の中がめっちゃ盛り上がってるんですよ。何言ってんだか分かんないけど、きっと身内のこと言ってんだろうなみたいな。生で見るラップ、ヒップホップってこんなにカッコいいんだって思ったんです。

レペゼン:
すごいきっかけですね。
それがヒップホップカルチャーに初めて触れた体験ってことですよね?

蔭山充洋:
初体験ですね。音楽とリアルなものはそこが初めてで。すげえなぁと思いました。
そこからむさぼるようにヒップホップを聴くようになったんです。お店にレコードがたくさん置いてあって、自由に借りることができたので、色んなのを片っ端から聴いて勉強しましたね。DJもそこから始めたっていう感じです。

レペゼン:
めちゃくちゃリアルな音楽体験ですね。
当時特に現場で盛り上がってた曲とかってありますか?

蔭山充洋:
その時、お店で一番盛り上がってんなって思ったのがルークとDJジミー。
今でもドレイクとかたまにサンプリングで使ってますね。
特にD.J. Jimi の「Bitches」って曲。歌詞がホント卑猥なんですけど。

【D.J. Jimi – Bitches 】

レペゼン:
もう名前からしてそうですよね笑

蔭山充洋:

で、それをみんなが大合唱するんですよ。

レペゼン:
へー!!

蔭山充洋:
というのも、そのD.J. Jimi の「Bitches」は、女性目線から見た歌詞が出てくるんです。「なんでお前のアソコちっちゃいの?」みたいな。で、同じD.J. Jimi の曲で「Where They At」っていう曲があって。それは男性目線から見た曲で。「Bitches」と「Where They At」を繋げてかけると、最初は女性が大合唱して、そのあと男性たちが大合唱してるみたいな。

レペゼン:
すごい。ガチでカルチャーですね。

蔭山充洋:
そうなんです。
そこからヒップホップカルチャーやDJって面白いなって思ってどんどんハマっていきましたね。

米軍が通うバーでのリアルなヒップホップカルチャー体験から、どんどん文化にハマっていった蔭山さん。
次回はヨーロッパ放浪から三浦市にパン屋を立ち上げるまでの話を聞いていくよ!お楽しみ!

前回までの記事はこちら→DJ、ヨーロッパ放浪、そしてパン屋へ。異色のキャリアを持つパン職人、蔭山充洋とは?

プロフィール

  • 蔭山充洋(かげやま みつひろ)

    蔭山充洋(かげやま みつひろ)

    1975年生まれ、横須賀出身。高校卒業後、音楽の専門学校に通いながら、横須賀・ドブ板通りの米兵が通うDJバーで、バーテンダーとして働き始めたことがきっかけでヒップホップカルチャーと出会う。その後バーテンダー、DJとして活動後、30歳からヨーロッパを放浪。フランスで農家から直接小麦を仕入れてパンを作るパン屋と出会ったことで、小麦作りに興味を持つ。帰国後、2008年に三浦市で自ら小麦を育て、収穫して、パンをつくるパン屋「三浦パン屋 充麦」を開店。自家製小麦から作る香り豊かなパンとヒップホップバイブス溢れるお店が地域の方に愛されており、週末には東京からもファンが訪れる人気店となっている。

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