アメリカでのDJデビュー秘話/DJ K.DA.B③

地道なプロモーションが有名になるきっかけ

ライター:レペゼン君

レペゼン:
そして大学卒業後にニューヨークへ移住するわけですが、旅行で行くのとはやっぱり違いましたか?

DJ K.DA.B:
学生ビザで渡米して語学学校に通ってたんですけど、まず会話を聞き取れないのが大変でしたね。話せるようにならないと何も始まらないと思ってたから、DJの機材も持って行かずに半年近く毎日学校で勉強してました。

レペゼン:
DJとして活動を始めるまで準備期間があったんですね。

DJ K.DA.B:
やっぱりどうしても人種差別みたいなものはあるし、若いからなめられることも多かったから。バカにされないためにも、英語力をちゃんと身につける必要があったんです。ちゃんと自己主張できないと存在を認められない国なので。

レペゼン:
なるほど。コミュニケーションを取れないことには始まらないと。

DJ K.DA.B:
渡米して半年くらい経った頃からクラブにも通い始めました。最初は高い金を払わされてたけど、仲良くなると意外とみんなサービスしてくれたりして。当時はまだCDの時代だったから、そこで知り合ったプロモーターやDJにデモCDを手渡ししたりもしていました。そうしたらある日、「オープンナップ(イベントの前座DJ)を探してるんだけど、どう?」ってお気に入りのDJから誘ってもらえて。しかもそれがすごく上手くいったんですよ。そこから他のプロモーターも目をつけてくれて、徐々に出番が増えていきました。

レペゼン:
それからはどんどんレギュラーを掴んでいくんですね。

DJ K.DA.B:
週4回くらいイベントに出演して、語学学校に行きつつDJしてっていういいリズムで生活できていた時期もありました。でも、25歳くらいの時にリーマンショックで一気にアメリカが不景気になって。これまで俺が出てたイベントに、高いギャラでしか出てくれないような大御所DJが下りて出てくるようになっちゃったんです。そうすると俺らは居場所がなくなってしまって。月に20本くらいやってたのが、一気に2本くらいまで減っちゃいましたね。

レペゼン:
それでも日本に帰ろうという考えには至らなかったんですか?

DJ K.DA.B:
最初は3年で日本に帰ろうと思ってたから、時期としてはちょうどいいタイミングではあったんですけど、こうやって出番が減ったまま帰国するのは納得いかないなと。それでアメリカ滞在を2年くらい延長しました。

レペゼン:
それから、どうやって活動を増やしていったのでしょう?

DJ K.DA.B:
自分のフライヤーを作ったりMy Spaceにミックスをアップしたりして、プロモーションを頑張っていました。そうしたら26歳の時に、My Spaceを見たMTVの人から『My Super Sweet 16』というMTVの人気ドキュメンタリー番組に出演してくれないかってオファーが来たんです。出演する女の子が日本文化に興味があったらしく、日本人のDJがいたら面白いんじゃないかって。そこから一気に、その放送を見たプロモーターやDJたちに存在を知ってもらえるようになりましたね。

レペゼン:
MTVに見つけてもらえたのも、自分で地道にプロモーションを頑張っていたからこそですよね。

DJ K.DA.B:
そうですね。やれることはやろうと、色々とチャレンジしていました。

レペゼン:
それからは順調に出演本数が増えていったんですか?

DJ K.DA.B:
月25本くらいまで増えましたね。ほぼ毎日DJしてました。

レペゼン:
そして、27歳の時に日本に帰ってくると。帰国後のことについては後編でじっくり聞かせてもらいます!

湘南のバスケ少年から、ニューヨークのDJへと転身したDJ K.DA.B。アメリカの不況という大きな困難にも負けず、地道な努力を続けることで切り抜けてきた。この後のインタビューでは、彼が日本に帰国してからのストーリーやDJとしてのスタイル、今後の野望について迫っていく。DJ K.DA.Bが語る、今のストリートシーンへの熱い想いをお見逃しなく。

…続く。

DJ K.DA.B Instagram:djkdab

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