目 次
パーティーを通して人の心を強く揺さぶり続ける人たちがいる。 彼らはなぜ、この仕事を選んだのか? このコーナーではパーティーというカルチャーに関わり続ける演出家たちの過去から現在まで続くキャリアを紐解いていきます。 今回は東京で約30年活動した後、現在は地元山形に拠点を移して活動するDJ TOSHIYAさんにお話を伺います。
DJ SHUNSUKE:
まずは自己紹介をお願いします。
DJ TOSHIYA:
DJ TOSHIYAです。山形県出身、DJ歴は28年です。30年近く東京で活動をした後、現在は地元山形県に拠点を移しました。

放送委員長だった小学生時代
DJ SHUNSUKE:
まず最初に、記憶の中で最も古い音楽体験を教えていただけますか?
DJ TOSHIYA:
小学生時代ですね。放送委員長をしていたのですが、昼休みの校内放送を担当していて、学校に保管してあるクラシックや童謡のアナログレコードに毎日針を落としてました。昼の時間になると給食を持って1人放送室に行って、マイク越しに挨拶した後に1曲かけては給食を食べる、1曲かけては急いでかっこむ…の繰り返しでした笑
以前、某雑誌のインタビューで「初めてレコードを手にした時の思い出は?」と質問されたのですが、遠い記憶を辿ってみると小学生時代だという事に気付いて思わずハッとしました。DJらしいと言ったらそうかもしれないんですが、我ながらずいぶん若い頃からレコードを触ってたんだなと思いましたね。
DJ SHUNSUKE:
放送委員って言葉、懐かしいですね笑
レコードに針を落として音楽を流していた事もそうですけど、考えてみると放送委員自体が今でいうラジオDJにちょっと近い感じしますね!では、ヒップホップとの出会いはいつ頃だったんですか?
DJ TOSHIYA:
中学生時代です。TV番組等から流れてくるヒップホップに何かわからないのですがビビッときたのを覚えています。90年代ヒップホップの音のイナタさだったり、サンプリングや上モノの音色、ドラムやベースの音のデカさが無性にしっくりくるというか。ZOOやLL BROTHERS等のダンスをTVで見るのも好きでした。高校生になって周りの影響でスケートボードを始めたのですが、友人が持ってきたラジカセでMIX TAPEを流すという流れができて。滑りながら何の気無しに聴いてるうちに気付けばどっぷりとハマってました。Eric B. & RakimやPublic Enemy、Wu-Tang Clan、NAS、Run DMC、Beastie Boys、House of Pain等を聴いていましたね。
96年のさんピンCAMP、そしてBusta Rhymesの衝撃
DJ SHUNSUKE:
ヒップホップとの出会いの中で、特に衝撃を受けた曲やアーティストはいますか?
DJ TOSHIYA:
国内のヒップホップでは、1996年に日比谷野外音楽堂で開催された「さんピンCAMP」というLIVE EVENTに出演されていたアーティストの皆さんの楽曲には当時衝撃を受けましたし、言葉にならない程の刺激を与えてもらったと思います。あの会場で体感出来た事は今では良き思い出の一つです。楽曲としては…すみませんがありすぎて決められません笑

DJ SHUNSUKE:
伝説的な曲ばかりですし選びきれないですよね笑
あの場にいらっしゃったのは凄くうらやましいです、僕は映像でしか見た事がないですが、現代の国内ヒップホップに負けない熱量を感じました。国外のヒップホップでは何かあったりしますか??
DJ TOSHIYA:
洋楽では、A Tribe Called Quest featuring Leaders of New Schoolの「SCENARIO」のMVで見たBusta Rhymesの姿には他のアーティストとは何か違う感じで衝撃を受けましたね。まだ見た事ないって人は是非一度チェックしてみてください。
仙台の焼き鳥屋のカウンターで学んだストリートのイロハ
DJ SHUNSUKE:
小学生の頃からレコードを触っていた訳ですが、実際にDJを始めるに至った経緯を教えてください。
DJ TOSHIYA:
当時の地元山形県内にヒップホップシーンがあるなんて事も知らずに、高校卒業と同時に単身宮城県仙台市へ移住しました。専門学校に通いながら友達とフラッと入ったとある焼き鳥屋の店主が、偶然にも当時仙台では有名なヒップホップクルーの一員だったんです。焼き鳥と烏龍茶を頂きながら色々な話を聞かせてもらっていたのですが、ブラックカルチャー、ヒップホップ、ストリートのイロハをその店のカウンターで色々勉強させて頂きました。若干19歳、そこは何でも吸収したいお年頃。若いなりに食らい付いてたんでしょうね、可愛がってもらってました。レコードを買ってはその店に行きジャケ見ながら話をする、そんなルーティーンで。
DJ SHUNSUKE:
素敵な出会いですね。
DJ TOSHIYA:
そこから店主も参加している週末のヒップホップイベントに誘われ、ナイトクラブという場所に初めて足を踏み入れました。DJブースに張り付いていた僕がそこで見た光景は本当に刺激的でした。フロアに背中を向け寡黙にレコード箱から選盤し、レコードに針を落としモニタリングする一連の流れ、その所作、スクラッチ等も織り交ぜながら時にはクイックに曲から曲へとMIX。そしてふとフロアを見ればダンサーやオーディエンスが踊っている。そんなクラブの空間と、DJの姿を目にしてシビレた事がきっかけです。
下北沢のDJ BARが世界を広げ、BON-VOYAGEが大きな転換点に。
DJ SHUNSUKE:
東京でDJとして活動し始めたのはいつ頃だったんですか?
DJ TOSHIYA:
DJとしての現場デビューは上京後21歳の頃でした。最初はレコード袋に自作のMIX TAPEを詰め込んで都内のナイトクラブやBARなんかに挨拶回りしてたんです。「東北から上京して来ました。OPENでもCLOSEでも何でも良いのでDJさせてもらえませんか?」と。そっけなく遇らわれた事もありましたし、終電も終わった時間帯に雨の中涙流しながら歩いて帰宅したのも今でもはっきりと覚えています。
DJ SHUNSUKE:
本当に地道な下積み活動をしてたわけですね。
DJ TOSHIYA:
そんな中、下北沢のとあるBARでDJするチャンスを貰えたんです。「店に置いてあるレコードも使って良いから」とDJさせてもらえて、マスターから沢山の人を紹介して頂きました。あの人がいなかったら…と本当に感謝しています。
DJ SHUNSUKE:
マスターと出会わなかったら、今のDJ TOSHIYAという存在はなかったかもしれないような出会いだったんですね。では、ご自身の名前を世に広めるキッカケになったような出来事、ターニングポイントってどんなものだったんですか?
DJ TOSHIYA:
下北沢のBARをキッカケに音楽業界の先輩だったり様々な人達と出会って行く中で、20代中盤位からはDJ CELORYさんとご一緒させて頂き「BON-VOYAGE」というクラブイベントをやってました。このイベントでDJをさせて頂けた事がDJキャリアのターニングポイントだったと言っても過言ではありません。

DJ SHUNSUKE:
BON-VOYAGE!TOSHIYA君が山形に戻られたタイミングで自分も声を掛けていただいて、現在自分もBON-VOYAGEには参加しています。読者の方は知らない方もいらっしゃると思うのですが、渋谷Nutsというお店からスタートした現在充電期間中の20年超えの超長寿のパーティです。
DJ TOSHIYA:
BON-VOYAGEで一緒にDJをやっていた某先輩からBIGアーティストさんのLIVE DJのお仕事を頂いたりもしました。自分自身では無くアーティストを引き立てる裏方的なお仕事で、普段の活動の場であるナイトクラブとは比較にならない数万人を超える観客を目の前に緊張で手が震える事もありました。自分が出した音にアーティストの歌が乗り、それを聴いた観客が熱狂する。僕も「音楽の素晴らしさやパワーが最大限伝わる様に…」といつも自分を奮い立たせていたのも今となっては良き思い出です。当時言われた一言があって。「どんな案件、いかなる仕事の依頼が来ても、いや自分は…とか、今は出来ません…とか次の機会にまたお願いしますとか、そういう返事が通用するほど甘い世界じゃ無いからな。2度も同じオファーは無いから、いついかなる時も出来ます、やりたいです!是非お願いします!って言えるように日頃から勉強して準備しておくんだぞ!」この一言は今でもしっかり胸に刻み込んでます。

人一倍必死にならないといけなかったので辞める余裕もなかった
DJ SHUNSUKE:
上京した当時はかなり苦しい思いもされていたとの事だったんですが、辞めようって思ったことはなかったんですか?
DJ TOSHIYA:
正直な話、若い頃は理不尽な事だったり納得いかない事だったり、散々悔しい思いもしてきました。少なからずモヤモヤした事はあります。でもそれよりも、DJがしたくて東京に来たはずなのに、何の為に上京して来たんだって自分に言い聞かせてました。結果「自分に負けたくない!」「続けたい!」という想いの方がずっとずっと強かったです。だから未だに辞めずにいれてます。
DJ SHUNSUKE:
その強い気持ちを保ち続けられた理由は何だったんでしょうか?
DJ TOSHIYA:
DJをする為に地方から上京して来ていた訳で、周りと切磋琢磨しながらも20代、30代、40代…人一倍必死にならないといけなかったので辞める余裕もなかったと言うのが本音です。あとは、10年位前からは時間がある時は日頃から運動したりジョギングしたりしています。時にはマラソン大会等にもエントリーして。学生時代にスケートボードで痛めた膝の古傷が必ずと言っても良い程ズキズキと痛み出すんですが、そういう時にどこまで耐えて自分自身と戦えるか。歩いても良い、這ってでも良いから必ずゴールするんだって言い聞かせながらゴールに向かいます。そういう事の積み重ねが己に負けない自分を形成しているのかなとも思います。

日本武道館でのDJと家族の訃報を聞きながら乗り越えた大舞台
DJ SHUNSUKE:
クラブやアーティストのLIVE DJなど様々なキャリアを重ねてきた中で特に印象深い出来事はありますか?
DJ TOSHIYA:
LIVE DJがらみなのですが2つありまして。1つ目は日本武道館でのMay J.のLIVE DJです。頭上には日の丸の国旗、360度の観客席、あの独特で言葉に出来ない位の荘厳な空気感。今では様々なヒップホップアーティストの皆さんも武道館公演を行っていますが、あの場所でLIVE中の転換部分、ピンスポットが当たるステージ上でDJ PLAYを経験させて頂けた事は忘れられません。

DJ SHUNSUKE:
もう1つは何でしょうか?
DJ TOSHIYA:
味の素スタジアムで行われたLIVE FESTIVALでの出来事です。May J.も参加する為、勿論僕も参加しており、前日のリハーサルを終えあとは本番を待つのみという状況で出演当日の朝を迎えました。会場入りして楽屋にいると、普段頻繁には連絡を取っていなかった母親から着信が。楽屋の外に出てかけ直すと「今朝方、じいちゃんが亡くなった」と。幼い頃から両親共働きで僕はじいちゃんばあちゃん子だったので、その場で膝から崩れ落ちたのを覚えています。でももうすぐ本番も始まるし、電話で状況を説明した後「夜になるけど最終便で必ず帰るから」と電話を切って楽屋に戻りました。
DJ SHUNSUKE:
それは…辛い状況でしたね。
DJ TOSHIYA:
楽屋では丁度May J.をはじめ、バックダンサーや関係者みんなが出番前にテンションを上げてる最中だったので、僕は精神的にもその場にいることが出来ず外の空気を吸って落ち着こうと1人ウロウロしてたところ、マネージャーさんと会ったので「絶対に誰にも言わないでくださいね」と念を押してから事の経緯をお話しました。励まされながら一緒に楽屋に戻りいよいよ本番。全員でステージに移動してステージ袖で円陣を組んだ時、みんなで手をつないで集中してた時に、マネージャーさんから話を聞いたMay J.が、みんなに僕の状況を話しだしたんです。「えーっ!!!」心臓がバクバクいって口から飛び出しそうっていうのはこういう感じなんだとその時実感しました。そしてみんなの前で言ってくれた一言——「TOSHIYA君のおじいちゃんもきっと観ててくれてる!みんなで最高なステージにしよう!」と。スタジアムに詰めかけた何万人ものオーディエンスを目の前に溢れ出る涙を拭ってDJブースに立った事、今でも忘れられない印象深い出来事です。


山形から音楽で発信する
DJ SHUNSUKE:
現在、東京から山形に拠点を移されて、力を入れている活動について教えてください。
DJ TOSHIYA:
東京で活動してきた中で経験してきた事だったり、僕なりのDJに対する姿勢みたいなモノ、今では誰でも簡単にDJが始められる様になった分、人前に立つ上で大事にしなければいけない事なんかを地元のアーティストやDJの皆さんに共有して行きたいと思いますし、山形県の素晴らしいアーティスト、表現者の皆さんを僕なりにどんどん紹介して行きたいと思います。
今現在YoutubeやSNSで「PASS THE MIC – YAMAGATA」というOFFICIAL CHANNELをカメラマンの7gatofilms氏と共同で立ち上げました。撮影時には毎回様々な挑戦、トライ&エラーを繰り返しながらも多角的にアーティスト達の魅力を紹介しています。

また、イチDJとして東北山形県の魅力を映像と音楽でPRすると共にここから発信して行きたいという想いから、地元のカメラマン達やクリエーターの皆さんの協力のもと映像作品も目下制作中です。約30年ぶりに地元に戻ってきた当時は知らない事だらけでまさに浦島太郎状態でしたが、行く所だったり見るモノ、触れるモノ、食べるモノ…全てが新たな発見の毎日。そんな田舎生活を楽しむと同時に、東京にいた頃に比べて四季の移ろいや自然の豊かさを身をもって体感、実感できているこの土地で日々インプットしながら制作した楽曲なども2026年リリース予定です。

地元の皆さんの力になりたい
DJ SHUNSUKE:
これから地元のクラブシーンに入ってくる若い世代へメッセージをお願いします。
DJ TOSHIYA:
山形県内でも徐々にですがDJにスポットが当たって来ていると思います。ナイトクラブやMUSIC BAR、LIVE HOUSE以外にも街中の飲食店やCAFE、催事やプロスポーツ会場での興業等でもDJブースを設置して大勢の人が集まる場なんかでDJが音楽で会場の雰囲気を盛り上げてます。どんどんDJとしての活動の場が増えている事は事実なんです。地元のDJやアーティスト等プレーヤー側に対しては「今しか出来ない経験を沢山した方が良いよ!」って言ってます。事を起こさず何もやらずにグチグチ言うのではなくて、やってみて気づく事だったり、やってみないとわからない事が本当たくさんあるので。あとは、僕に出来ることだったり、話を聞く事だったりは出来ますので、何かで悩んでる皆さんは1人でモヤモヤせずに現場やDMなんかでガンガンアプローチして来て下さい。可能な限り地元の皆さんの力になりたいと思ってますので。
リスナーやお客さんに対しては、山形県内にもナイトクラブやMUSIC BAR、LIVE HOUSEやMUSIC FES等、音楽と触れ合える場が沢山あります。現場に足を運んで爆音で体感してみて下さい。必ずや出会いや新たな発見があるはずです。是非一緒に音を楽しんでいきましょう!

DJ SHUNSUKE:
最後に、DJとして心の中で大切に思っている事を教えてください。
DJ TOSHIYA:
とあるDJの先輩が昔言っていました。「曲と曲を繋げるのもDJなんだけど、人と人を繋げるのもDJなんだよな…」と。そういう重要な役割を担っているという事を、僕も忘れた頃にいつもふと思い出すんです。本当に素晴らしい考えだと思います。

プロフィール
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Nicki Minaj、TLCのJAPAN TOUR にOpnning act DJとして国内DJで唯一の出演。他にも、CALVIN HARRIS、DJ SHADOW JAPAN TOUR等でも活躍。これまで海外DJやアーティストの来日公演時に数々の競演を果たし、経験と実績に裏打ちされたそのPLAY STYLEでオーディエンスを魅了してきた。 主な海外DJ、アーティスト共演者(DJ Neil Armstrong, KELI HILSON , Che'Nelle , MYA , STEVIE HOANG , DJ Clark Kent …他) 今は無き伝説のCLUB 新木場ageHaでのFEVER , SABISHINBO NIGHT , HALLOWEEN NIGHT等のレギュラーをはじめ、DJ CELORYとのBON-VOYAGEの立ち上げや04BLACK , ENJOY , CANDY 等、渋谷、六本木をはじめとした東京都内レギュラーPARTYを中心に、全国各地多数のイベントにて精力的に活躍中。多方面にて多くのPROPSを集めている。 今は無き渋谷FMの人気番組「Minami Active Style」にてDJ MIXを担当すると共に、Inter FM、Tokyo FM、Wrep Radio等でもDJ MIXを披露した他、BIGフェス「渚音楽祭」や「FUKUOKALOVE&COLLECTION」、「岡山響音楽祭」、「CLUB LAVA」(台湾台北)等にもGUEST DJとして出演し週末詰め掛けたCloudを魅了した。 MC BATTLE のフィールドではageHaで開催されていたスター誕生や激闘ラップ甲子園東北大会のブレイクDJを担当。 CLUB DJの傍ら、アナ雪の爆発的なヒットで一躍有名になり、その年NHK紅白歌合戦にも出演、今や国民的 実力派女性アーティストの一人となった May J.(avex rhythm zone)専属のLIVE&TOUR DJ としてデビュー当時よりライブをサポート。他にも、MYA、般若、SPINNA B-ILL、三木道三 等のLIVE DJとしても活動経験があり振り幅広くDJとしての抜群の安定感、そのセンスの良さを高く評価されている。 近年地元山形県に拠点を移しCLUBや様々な現場はもとより山形県が誇るプロサッカーチームモンテディオ山形ホームゲームでの場外イベント等でもDJを担当し活発的に活動中、また県内アーティスト等の情報発信(PASS THE MIC - YAMAGATA)にも力を入れている。
