「ストリートカルチャーに触れながら育つ中でヒップホップとも自然に出会った。」

海外に拠点を置きつつ日本国内でも大活躍するDJ RAMのキャリアとは?

ライター:DJ SHUNSUKE

パーティーを通して人の心を強く揺さぶり続ける人達がいる。
彼らは何故、今の仕事を選んだのか?
このコーナーではパーティーというカルチャーに関わり続ける演出家たちの過去から現在まで続くキャリアを紐解いていきます。

第十七回は海外に拠点を置きつつ日本国内でも大活躍するDJ RAMさんのキャリア、前編をお送りします。

SHUNSUKE:
忙しい中時間を作ってくれてありがとうございます。堅苦しいのも嫌なので普段通りに会話しながらインタビューさせてください。まず自己紹介をお願いします。

RAM:
DJ RAMです。神奈川県出身39歳です。

SHUNSUKE:
ヒップホップとの出会いはいつどういう形だったの?

RAM:
自分の地元が湘南だっていうのもあってサーフィンとかスケーターとか、そういうスポーツに触れてる人が周りに凄く多かったです。ストリートカルチャーに触れながら育つ中でヒップホップとも自然に出会ったように思います。本格的に聞くようになったきっかけは、レゲエを先輩がやったりしていた事がきっかけで地元のダンス(※1)とかにも行くようになった時に、ヒップホップを耳にした時かもしれないです。純粋に「かっこいいな、ヒップホップ。」って思うようになりましたね。Nauty By NatureのHipHop Hoorayとかでお客さんがめちゃくちゃ盛り上がってたりした時代です。90年代後半~2000年代初期ですかね。湘南は、新譜と呼ばれる現行のヒットチューンも盛り上がりますけど、クラシックの楽曲がメインのパーティもしっかり盛り上がってたりします。オジサンたちが元気な街かもしれないですね笑

SHUNSUKE:
オジサンたちが元気な街!
湘南出身の人達ってみんな同じことを言うけど、本当に自然にストリートカルチャーや音楽と出会う事が多いんだね。

RAM:
僕らの時代はやってみたいと思ったストリートカルチャーに根付いたことって全部やってました。スケボーもそうだしサーフィンもそうだし。スケボーやってた時にヒップホップそのものにはもう出会ってたと思うんですけどね、本格的に聞き出したのはダンス行ってからかな。

SHUNSUKE:
日常にストリートカルチャーや音楽が当たり前にある環境でどういうタイミングでDJになろうって思ったの?

RAM:
当時サーフィンとかを一緒にしていた仲良の良い先輩がいて、その人の家に良く遊びに行ってたんですけど、家にターンテーブルがあったんです。その先輩はプロサーファーをしながら夜は有名なクルーでセレクターをしてました。僕はその時初めてターンテーブルっていうものを目にしたんですけど、その人のやってる現場に遊びに行ったりして、僕も少しずつやりだして、DJをスタートした感じですかね。藤沢の小箱とかに先輩にくっついていってDJしたりしてました。まあ、活動と言っても当時はあくまで趣味レベルでしたね。17とかでしたし、まだ将来を考えて取り組んでたわけではなかったです。

SHUNSUKE:
なるほど、じゃあいわゆる「下積み」みたいなのって地元での活動って事になるのかな?

RAM:
自分の場合は、すぐ横浜でたんですよ。当時、横浜のクラブシーンって凄く敷居が高かったです。今は渋谷や六本木とかに横浜から遊びに行く人が多いのかもしれないけれど、その逆で渋谷とかから横浜に遊び人も沢山いた時代でした。クラブもオープンから50メートルくらい並んでて。当時OZROSAURUSやDS455とかへの憧れもあってよくライブとか横浜へは見に行ってたんですけど、自分自身、とにかく人が多くて、大きなシーンがあるところへ行ってみようと思って横浜へ出ました。絶対にプロになるっていう決意があったかと言われるとその時点でもまだそこまでの決意はしてなかったんですけどね。なので別に大きなコネクションとかもないまま活動の拠点を藤沢から横浜へ移した感じです。

SHUNSUKE:
当時の横浜は凄かったよね。DJも多かったしレコード屋さんも沢山あったし、外国人のお客さんも凄く多かったイメージがある。

RAM:
はい、横須賀にアメリカ軍の船が到着したら横浜のクラブは軍隊のお客さんで賑わってたりとかありましたね。お客さんも多くの人種を相手にしていましたし、音楽的にも柔軟に吸収出来るような場所でした。僕が最初に横浜で色々活動させてもらったのは今も横浜駅の近くにあるLutherというMusic Barです。FM横浜でもDJをされているDJ Kuriharaさんが毎週木曜にDJをしていて、レコード持ちみたいな事をさせていただきました。Lutherでは自分よりずっと年上の方が踊りに来たり飲みに来たりするようなお店でしたけど、凄く色々な事を学ばせてもらいましたね。そこで活動を続けるうちに、LOGOSというお店の土曜日のレジデントDJをされいたDJ TAIJIさんからスカウトしてもらいました。一緒に土曜のロゴスやってみないかって。

SHUNSUKE:
LOGOS!懐かしい!横浜の名門クラブ、出てるDJはみんな上手い箱ってイメージだった。このころもまだDJとしてやっていくっていう気持ちはなかったの??

RAM:
LOGOSでDJをするようになって、自分のDJを楽しみにしてくれているお客さんが少しずつ増えだしたころに本当にプロとしてやっていきたい、というような感覚が明確になったと思います。しっかりとした決意というより、自然とそう考えるようになっていたっていうのが正しいかもしれませんね。

SHUNSUKE:
なるほど。環境や立場が意識を変えたっていう事だね。LOGOSではやっぱり色々揉まれた??

RAM:
揉まれましたね。当時、LOGOSは沢山ある横浜のクラブの中でもハイグレードな場所でした。オシャレな大人がかっこよく遊んでるような。DJも沢山いるわけではなく、少人数でハイレベルでしたね。そこで、オープンアップ兼レコード持ちのようなことをやらせてもらいました。土曜日はオープンで自分のDJをしたあと、先輩たちのレコードをピックアップする為に車で移動、みたいな忙しい事をしてましたね笑
そういう事を2年くらい続けた後、クローズパートのDJを任せていただいて。敢えて先輩たちがプレイしなかった新譜をラストで挑戦してみたりしてました。次の週にメインタイムで先輩がその曲を掛けたりするとなんだか嬉しかったですね笑
そんなこんなで横浜にしっかり馴染んできたころかな、風営法の影響でロゴスが潰れて。横浜の多くのクラブが影響を受けて閉店を余儀なくされた流れがありました。

SHUNSUKE:
風営法には日本中のクラブが苦しめられたね。渋谷や六本木、西麻布でも皆大変な思いをした時期だったよね。

RAM:
色々悩んだ時期でした。横浜駅にクラブを作ってみようって考えたり。このころに東京へ活動拠点を移す決意をしましたね。横浜で自由に活動できる場所が減っている以上、今行くべきだなって。

後半へ続く

※1 レゲエではヒップホップでいう「パーティ」の事をダンスと呼ぶ

プロフィール

  • DJ RAM

    DJ RAM

    2001年よりCLUB DJとして始動。 数々のCLUB、PARTY、BAR等でDJをこなし、HIPHOPを軸にALL GENREな幅広い選曲とこだわり抜かれたミックスやスクラッチができるDJ。 2008年には、若くして誰もが知る横浜の老店CLUB LOGOSの週末看板PARTYの RESIDENT DJに大抜擢され頭角を現し始める。 その後、拠点を東京に移し都内各CLUBのレギュラーや日本各地でGUEST DJとして招かれる。 2018年には、数々の活躍が認められDENON DJ、DJCITY JAPANとパートナーシップを 結ぶ。 2021年には、Tokyo 2020 Olympicsにて野球、ソフトボールの横浜ラウンド全試合の DJを担当し、金メダル獲得の後押しに貢献した。 2022年よりFC東京のホームナイトゲームでパフォーマンスを開始。また、ラジオステーションInterFMにゲスト出演やWREP RADIOに開局時にレギュラー出演など、まさにオールラウンドプレイヤーなDJとして定評を受けている。

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