「同世代の女の子たちがカラオケとかしてる間に、私はDJをしてましたね。」

ママDJとして前例のない道を歩き続けるDJ NAGISAのキャリアとは?

ライター:DJ SHUNSUKE

パーティーを通して人の心を強く揺さぶり続ける人達がいる。
彼らは何故、今の仕事を選んだのか?
このコーナーではパーティーというカルチャーに関わり続ける演出家たちの過去から現在まで続くキャリアを紐解いていきます。

第十八回はママDJとして前例のない道を歩き続けるDJ NAGISAさんのキャリア、前編をお送りします。

SHUNSUKE:
まず自己紹介をお願いします。

NAGISA:
DJ NAGISAです、神奈川県出身です。海の近くの藤沢市で生まれました、本名です。

DJの道へ進むきっかけはダンスだった

SHUNSUKE:
DJを志した理由や元々のブラックミュージックとの出会いって何だったの?

NAGISA:
藤沢っていう街が割と音楽やストリートカルチャーの活発なエリアなので小さなころから洋楽自体は頻繁に耳にしてました。出会いって言われたら思い出せないし、好きな曲って言われたら沢山あるんですが、凄く衝撃だった楽曲としてはダンス部に所属していた高校一年生の時、三年生の引退の時に終演の曲として使われてたA Taste of Honeyの”Rescue Me”ですね。TLCで柔軟したり、ダンスするに当たってラップミュージックとか色々聞いてましたけどこの曲を聞いてR&Bっていうものに凄く惹かれるようになりました。なんだこれは!っていう印象を受けましたね。

SHUNSUKE:
スタートはダンサーだったんだ。

NAGISA:
はい。高校卒業してクラブで踊ったりもしてたんですけど、クラブに行くことでDJを目にする機会が増えてきたんですね。何をやってるのか知った時に「これでダンスの音つくれるじゃん!」って気が付いたんです。音源編集とか当時はMDとかでやってたんですけどDJで作ってみたらなんか面白そうだなって。DJに興味を持ち始めたころに、グループで踊ってたダンスが中々うまく回らなくなったんですよ。今考えると、メンバーみんな多感な年齢だったし、たくさんやりたいことも出てくるはずなので部活でやっていた時とは少しずつ変化が出て当然の時期でした。それに、クラブで踊るって、ノルマとかそういうのが付いて回る時代だったし、みんなで集客をしないといけないのに全然してくれないメンバーとかも出てきて。モチベーションとか合わなくなってきちゃったんですよ。そういう悩みをDJの友達に相談したら「グループでやるのもいいけど、DJは一人で出来るよ。DJやってみたら?」っていう話をしてくれて。あれよあれよとミキサーを貰えるっていう事になったので、テクニクスの一番良いターンテーブルを買いました。湘南にはダイニングバーとか、機材を置いてあるお店やクラブもそれなりにあったので、DJをする場所がチャンスが結構ありました。同世代の女の子たちがカラオケとかしてる間に、私はDJをしてましたね。

横浜のクラブの減少と六本木グリーンランドでの出会い

SHUNSUKE:
地元でスタートしたDJライフだけど、プロとして活動をするようになるまでターニングポイントってあった?

NAGISA:
いくつかあります。まずは活動の場所を東京に移したこと。東京にたくさんクラブがあるように、以前は横浜にも沢山クラブがありました。私自身、渋谷でもたまにDJはさせてもらってたんですけど、横浜でもレギュラーをずっと続けてました。横浜のクラブDJって本当に全員上手くて。凄く沢山勉強させてもらいました。でも時代が変わるにつれて、風営法とかの問題とかもあって横浜からはどんどんクラブが姿を消してしまったんですよね。当時、本当にDJしたいって思っていたお店も閉店してしまったりしたこともあって、東京での活動をメインにしていきました。親しみのある横浜や湘南から活動拠点を移すと言う事は、私の中では大きな出来事でした。

第二のターニングポイントは六本木にグリーンランドというお店があって、そこにDJ IZUMIさんっていう女性DJの先輩がいて。「毎週月曜にグリーンランドでDJするんだけどNAGISA、一緒にやらない?」って誘ってもらって。六本木は派手なクラブが沢山ありますけど、グリーンランドは知る人ぞ知る、というような遊び慣れた人が来るお店だったんです。遊びに来るのも、日本人からアメリカ人、ヨーロッパの人達やアフリカの人たちまで本当に多くの人種が遊びに来るお店でした。普通のクラブが5時に終わるところが、グリーンランドはアフターの時間まで営業してるのも売りで、他のお店の先輩DJ達がお仕事終わった後にたくさん遊びに来るようなお店でもあったんです。グリーンランドでDJをした事は技術的な向上にもつながったけど「DJ NAGISAはしっかりしたプレイが出来る」と言う事を周りに伝えるきっかけにもなった場所でしたね。かなり仕事が増えた時期でした。

フリーランスから社員DJへの転身

第三のターニングポイントとしては、お店のDJになったと言う事。私自身、DJでしっかり生活出来るくらい沢山の仕事を持っていたんですけど、フリーとしての活動に少し行き詰まりを感じていました。毎日渋谷や六本木にDJしに行ったり、顔を出しに行ったりして、朝寝て夕方起きて…そんな毎日の中で今のまま活動していて何か変わるんだろうか?って考えるようになっていました。これから年を重ねていくについれて、自分一人で今より上のステージに進む方法が思い当たらなかったんですね。そんな時に麻布十番にあった大きなクラブと六本木にあるV2 TOKYOのボスDJから系列店で女性DJをさがしてるっていう相談の電話があったんです。私自身、V2 TOKYOでは何度かDJさせてもらった経験はあったんですけど、その話を聞いて自分から「それは私ではダメですか?」って聞いたら喜んでくれて、すぐに話を進めてくれました。

SHUNSUKE:
フリーから社員へ。ギャランティとか生活に直結する部分は変化はなかったの?

NAGISA:
フリーのDJとしてそれなりにお金を稼げていましたけど、V2 TOKYOのDJになる事によってお給料も新入社員の金額からスタートしました。ただ、V2 TOKYOに入る事で私一人では行けなかった場所にいける可能性を感じたので挑戦してみようって思えたんです。確実に私が見た事もない世界を知っている人達が会社を運営していて。しかも社長は女性。信じられないほど凄いつながりを持っているパワフルな方だし、新しいステージとしてはこれ以上ない場所だと思えましたね。

SHUNSUKE:
目の前のお金よりこの先に得られるであろう大切なものを選んだっていう事だね。

NAGISA:
そうですね!実際、入社してからスペインのイビザでもDJするチャンスを貰えました。ギネス記録を持ってる広さが世界一のクラブでDJさせてもらったり、路面店のクラブでDJさせてもらったりと素晴らしい経験をさせてもらいました。生のDavid Guettaのプレイを体感したり、活力も沢山得ました。実際のイビザでの自分DJプレイでは本当にこれまでで一番いい意味でも悪い意味でも面食らったというか。自分の力不足も強く感じたし、このままじゃダメだなって。フリー時代にアジア圏ではDJをさせてもらいましたけど、イビザは面白さも難しさも全然違いましたね。でも、その時に思ったのは環境を変えるために踏み込んでよかったっていう事です。本当に価値観が変わった。こんな出来事って簡単には経験できないって心から思いましたね。

プロフィール

  • DJ NAGISA

    DJ NAGISA

    幼少の頃から父親の影響で常に音楽と触れ合う環境で育ち3歳からピアノ、15歳でHip hop,Jazz Danceを始める。 Dancerとしてクラブイベントにも出演していたがDJとして活動している仲間達に影響を受け2006年、Club DJとしてデビューする。 プレイスタイルはHouse、Electro、Hiphop,R&B etc...BrandnewからClassicまで幅広い年代とジャンルを女性らしい繊細さとグルーブで紡ぐOpen format styleには業界関係者からも定評があり、数多くのファンを持つ。 東京都内の主要クラブ以外にもフジテレビ(Live News It !)、Abema TV(給与明細)、ラジオ出演(Tokyo Inter FM,レディオ湘南)、大手企業パーティー(Amazon,Ferrari,BMW,PUMA,Sanrio等)、更に日本全国各所でGuest actとして出演し、海外にも幅を広げ様々な場所でもDJを経験。 スペイン・イビザ『PRIVILEGE』『TANTRA IBIZA』/ シンガポール『Sundown Marathon』/ 台湾『OMNI 』/ マレーシア『K.L Jamm』/ オーストラリア『BILLBOARD NIGHTCLUB』各所にて日本人女性初となるDJ出演を果たし多くの賞賛を得た。 2018年Spinnin’ Recordsの楽曲を多数収録したオフィシャルMixアルバム『SCANDAL BEST POP PARTY』を、2020年自身初となるオリジナル楽曲『Starlight』をiTunes、Apple Music等の各種サイトから配信リリースし作品での人気も獲得している。 2021年東京オリンピック/ パラリンピックの音楽担当を務め世界中で注目される大舞台に立つ。 海外アーティストとの共演も多数経験し、まさに日本を代表する女性DJのひとりである。

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