“同じアトリエから生まれた作品”という世界観で音楽や洋服に向き合っていきたい。マルチな才能を発揮するMr.仕事人。

DJ、トラックメイク、そして洋服。多才なアプローチで独自の感性を表現するTAKENOKOのキャリア。

ライター:ほりさげ

パーティーを通して人の心を強く揺さぶり続ける人達がいる。彼らは何故、この仕事を選んだのか?このコーナーではパーティーというカルチャーに関わり続ける演出家たちの過去から現在まで続くキャリアを紐解いていきます。
今回は、ダンサー、DJ、トラックメイカーとして大阪のHIPHOPシーンで長く活躍し続けてきたキャリアを持つほか、現在は自身のブランド「HIRAMEKI STUDIO」から完全オリジナルのアイテムを展開するなどマルチな才能を発揮するアーティスト、TAKENOKOさん。音楽、パーティとの向き合い方や、複数の分野の作品を並行してクリエイトするHOW TOに迫ります!

初めてセラートを買ったその日にDJデビューして、気づけば週5で回していました。

レペゼン:
簡単に自己紹介と、DJを始めたきっかけからお願いします。

TAKENOKO:
TAKENOKOです。出身は兵庫で、20代頃は神戸と大阪を中心にダンサーとして活動していました。DJを始めたのは、もともとDiplo(*)がめっちゃ好きで、自分もDJやプロデュースがしたいと思ったのがきっかけです。それが29歳くらいですね。
※Diplo … US出身のDJ/プロデューサー/テクノミュージシャン。Switchとのプロデュースユニット「MAJOR LAZER」としても世界的な人気を誇る。

 

レペゼン:
ダンサーとして活躍したあと、30手前にして、DJのキャリアもスタートされたんですね。

TAKENOKO:
ちなみに初めてセラート買ったその日に、現場でDJするというすごいデビューのしかたでした笑。知り合いのゴーゴーバーなんですけど、22:00から1:00までの3時間プレイするのを週5で入れられて…笑

レペゼン:
めちゃめちゃ修行になりそうですね!笑

TAKENOKO:
そのおかげで、半年後くらいにはミックスが自由自在にできるようになりました。

レペゼン:
それ以外にはどんな場所でプレイされていたんですか?

TAKENOKO:
アメ村の[Club GHOST]とか[DONFLEX Lounge]でも割とすぐ回させてもらえるようになりました。でも自分は当時ダンサーの活動がガッツリだったこともあって、いわゆる“ダンサー集客枠”みたいな扱いの時も多くて。「自分のDJの内容というよりポジションとして呼ばれてるやん」と思って、ずっと悔しかったですね。でもここ数年でようやく、DJとしての内容を評価して呼んでもらえるようになりました。

確かなキャリアを誇る現在のTAKENOKOのプレイは、ヘッズを陶酔させる。

良いと思った楽曲を3つくらい掲げて参考にした結果、全然別のものができるんです。

レペゼン:
今ではプロデューサーとしての活動も顕著ですが、トラックメイクを始めたのはいつ頃からですか?

TAKENOKO:
33歳くらいの時に、音楽の趣味が一緒だったDJ GRINDと、ip passportと、自分の3人で「BOUNCE CATZ」というプロデュースユニットを組んだのが始まりです。

TAKENOKO:
そもそも自分が、そういうユニットにずっと興味があって。でもやりはじめた時はトラックメイクの術を何も分からなかったから、当時自分が勤めていたダンススタジオの一室に機材を置いて、ひたすら作業しながら勉強していました。

 

アメ村・[心斎橋SUNBOWL]のCMにも起用されたBOUNCE CATZの音源

TAKENOKO:
でも2018年頃にDJ GRINDが仕事の関係で地元の姫路に帰ることになり、そこからはip passportと2人での活動になります。

レペゼン:
お2人名義での作品もかなりコンスタントに発表されていたと記憶しているんですが、制作のペースは決めていたんですか?

TAKENOKO:
決めていました。エディットやオリジナルのトラックを定期的に公開することをノルマにして。

Represent:
大阪のクラブでもよくかかっていたのを覚えています。

TAKENOKO:
2023年のコロナ禍明けくらいからは、環境が変わったこともあり、徐々に音作りも1人体制にシフトしていきました。今やってる洋服作りに向けた修行がこの時始まったり、DJで野外フェスに呼んでもらえるようになったり、子どもが生まれたりと、もう怒涛の日々で。ほぼ記憶ないです笑

レペゼン:
人生のターニングポイントですね!

TAKENOKO:
でもこの3年くらいでようやく自信がついてきたかもしれません。でも自分がやってることが仕事になってなかった時は、いろんなことを並行していろんなものに手を出してるのに対して「何やってんねやろ……」ってなる時もありましたけどね。

レペゼン:
トラックメイクにおけるインスピレーションやアイデアはどういったところから湧いてくるんですか?

TAKENOKO:
「これ良いな」っていう音を見つけたらストックするようにしていて、トラックメイクするときにそれを3種類くらいイメージとして掲げるんです。例えばキックの置き方を真似てみたり、メロディをサンプリングしてみたりと、少しずつ参考にする。でもその結果、全然別のものができるんです。だからインスピレーションというよりもサンプリングですね。0から作れるような才能はないので笑。HIPHOPらしくサンプリングして、自分なりの音楽を作っています。

レペゼン:
TAKENOKOさん独自の視点で再構築されたサウンドは本当にかっこいいです。トラックメイクにおいて難しいと感じる部分はどこですか?

TAKENOKO:
キックとかベースとかハイハットといった音の要素を“立体的に置く”みたいなものは難しいというか、考えだすとキリがないですね。本格的なプロデューサー界隈では「基本的にはこう」みたいなセオリーがあるみたいで。でも一回音大出身の友達に相談したら「なんでもいいねん」って言われて笑

レペゼン:
専門家がそう語るなら間違いないんでしょうね笑

TAKENOKO:
とはいえ自分が納得する音を作れるようになるまで10年くらいかかりました笑
最近になってやっと「自分にしか作れない感じが出せてるかも」と感じています。

毎週地道に続ける一方で、毎回海外ゲストを呼ぶことで、徐々に目立つ存在になっていきました。

レペゼン:
次にTAKENOKOさんがレギュラーDJとして参加されているパーティ「FULLHOUSE」について。今やアメ村を代表するパーティで、音好きはもちろん、ファッション好きからの指示も高いのが独自だなと思います。2023年には「Boiler Room」とのコラボレーションを通して知名度が一気に上がったことも記憶に新しいですが、ざっくりどんなパーティかという説明からお願いします。

TAKENOKO:
コロナ前に、アメ村に[MOOD]というクラブができた時に、DJ ryotaと一緒にやろうってなったのがきっかけで、その頃にはもう「FULLHOUSE」という名前でやっていましたね。当時、他のパーティで一緒になることが多かったメンバーも誘ったり。でも[MOOD]がすぐ閉店してしまったので、[CIRCUS OSAKA]に場所を移しました。

レペゼン:
音楽的にはDRUM&BASSや四つ打ちが中心な印象です。いわゆるHIPHOPサウンドというよりも、もう少しダンスミュージック寄りと言いますか。

TAKENOKO:
スタイル的にはUKの音楽が軸ですね。例えば最近だったらブラジル・リオデジャネイロ発祥のBaile Funk(バイレファンキ)(*)とか。でも最近になって、自分の根っこにある音楽性はUSなんやなって感じていて。USの音楽をUKのアーティストがエディットしたトラックとか、あとは普通にまっすぐUSのアーティストの曲をかけたりすることもあります。

※Baile Funk … マイアミ・ベースやギャングスタラップから派生したジャンル。UKのクラブシーンを中心に世界的に広まっている。

レペゼン:
京都の「STAR FESTIVAL」を皮切りに、野外フェスへの出張も定期的に行われ、今年はついに「FUJI ROCK2025」への出演も果たされました。そうやってFULLHOUSEというパーティブランドがどんどん外に広がっていくのは、どんな理由があると思いますか?

TAKENOKO:
はじめ、毎週土曜のパーティを1~2年くらい地道に続ける一方で、ほぼ毎週海外ゲストを呼んでいたこともあって、[CIRCUS]のレギュラーパーティの中でも徐々に目立つ存在になっていって。ある日[CIRCUS]のボスのTOYOさんという方から「フェスとかも出てみない?」と言ってもらったのが、大きい舞台に広がるきっかけでした。

レペゼン:
堅実に続けつつも、大胆に攻め続けるという両方の性格があったんですね。国内のヘッズのみならず、海外に向けて発信するスケールの大きさは、「Boiler Room」とのコラボで確かになったと感じました。

 

大阪でキャリアをスタートさせ、今では全世界で飛躍するラッパーMFSも、盟友DJ RUIと共に凱旋出演。

TAKENOKO:
パーティの長を務めるryotaが海外でプレイしたり、海外のDJクルーとアジアツアーをすることが増えてきたのが大きいですね。そのツアーの関係者がBoiler Roomにも携わっていて「ぜひFULLHOUSEで」と話をもらいました。場所も[CIRCUS]なんですけど、チケットは即完でした。自分はオープンDJだったんですが、オープン前から長蛇の列で、もう開場した瞬間にフロアがパンパンになってみんなDJブースを囲んで踊ってるという状態でした。

 

最初期からのメンバーであるSAMOのプレイも、おおいにこの日のフロアをロックした。

“同じアトリエから生まれた作品”という捉え方で音楽や洋服に取り組んでいきたい。

レペゼン:
今回はDJ、プロデューサーとしてのTAKENOKOさんの顔に迫ったわけですが、ここ数年は、アパレル部門の発信にも力を入れられています。複数の異なる分野においてアウトプットをする中で、意識することや目指している像をお聞かせください。

TAKENOKO:
ゆくゆくは、自分が作る洋服や音楽といった作品の世界観をマッチさせるのが目標ですね。今は合わせようとしても逃げられてしまって、追いかけっこになる感じがしていて笑
あくまで感覚の話なので言語化が難しいんですが…。

レペゼン:
これまではダンサーTAKENO、DJ/トラックメイカーTAKENOKO、HIRAMEKI STUDIO…とそれぞれのジャンルごとに名義もさまざまでしたが、1人のアーティストが手がける作品として、世界観に一貫性を持たせるようなイメージでしょうか?

TAKENOKO:
そうですね。以前は、ダンス、音楽、洋服という複数の発信を、全部別の脳で考えようとしていたんですけど、「そんなに器用な人間じゃないわ!!」って最近ようやく気づいて笑。例えば音楽に集中して向き合った後に、洋服の仕事モードに切り替えるのとか、全然できないんですよ笑。それよりも、“同じアトリエから生まれた作品”という捉え方でそれらに取り組んでいきたいです。だから同じ職場に洋服作りのミシンと、音楽機材を置いてみたりしています。全てをひっくるめて1つのアトリエから生み出すみたいな。

レペゼン:
なるほど。つい最近ローンチされたばかりのHIRAMEKI STUDIO含め、今後の飛躍が楽しみです。今日はありがとうございました!

プロフィール

  • TAKENOKO

    TAKENOKO

    日本を拠点とするDJクルー/コレクティブクルー「FULLHOUSE」や「amapinight」のメンバー。90年代中期からダンサーとして関西内外のクラブ・シーンにて個性溢れるパフォーマンスで人気を博し、2010年より本格的にDJとしてのキャリアをスタート。2019年よりCLUB CIRCUSでのパーティーをきっかけに「FULLHOUSE」を結成。2023年にはBOILER ROOM OSAKAにも出演。その後、本格的に音源制作活動を開始。2023年には、DJ YUNG EASYからTAKENOKOへと改名、クラブ・プレイ、音源製作、クリエイター活動を通じて、更に刺激的・多幸感に溢れるダンス・ミュージックをアジアから世界へと発信するべく、目を光らせている。