野球少年からバンドマン、そして写真の道へ。ヒップホップ好きフォトグラファー、小田駿一

懐かしき2000年代ファッションカルチャーとヒップホップ文化

ライター:TARO

ヒップホップ好きのスポーツ選手や文化人のキャリアや仕事について全4回に渡ってインタビューしていく「あの人も実はヒップホップ」。今月のゲストはヒップホップ文化をこよなく愛するフォトグラファー、小田駿一(おだ・しゅんいち)さん。ヒップホップにフォーカスしたマルチモーダルなプロジェクト「BLUEPRINT™」のファウンダーとしての顔も持つ小田さんのキャリアについて伺いました。Vol.2の今回は小田さんの学生時代、そして写真家としてのキャリアについて。

前回の記事はこちら→ ヒップホップ文化をこよなく愛するフォトグラファー、小田駿一

野球少年が出会ったヒップホップカルチャー

レペゼン:
小さい頃はどんな性格の子供だったんですか?

小田駿一:
今振り返ると、ADHD的なところがあったと思います。授業中もじっとしていられなくて、親には迷惑をかけていましたね。落ちつきのない子供でした笑

レペゼン:
元々何か絵を描いたり、芸術的な活動には興味があったんですか?

小田駿一:
いや、全然笑
小学校の時は完全に野球少年でした。とにかく野球に打ち込んでいましたね。
中学も野球部に入ったのですが、遊びたい気持ちが強く、だんだんやる気がなくなってしまって。そんな時に軽音楽部があることを知り、友達とバンドを始めたんです。

レペゼン:
どういうバンドをやっていたんですか?

小田駿一:
僕はベースをやっていたのですが、最初はメロコアでした。グリーン・デイやオフスプリングのコピーをやっていましたね。その後、メタルにハマる時期があって。中学3年の後半から高校1年まではメタルバンドをやっていました。でも最終的にはブラックミュージックに興味を持つようになりましたね。ジャミロクワイや、ジャコ・パストリアス、マーカス・ミラーなんかが好きでしたね。

レペゼン:
ではヒップホップを知ったのもその頃ですか?

小田駿一:
いえ、最初にヒップホップを知ったのは、小学校5年生の時で。野球チームのコーチが大学生だったんですが、その時にチームの出し物としてダンスをやることになり、彼が練習用の曲として持ってきたのがDragon Ashの『Grateful Days』だったんです。

【 Dragon Ash – Grateful Days 】

レペゼン:
それが最初のヒップホップとの接点だったんですね。

小田駿一:
そうですね。そこから結構ヒップホップを聴くようになって、RIP SLYMEやSteady & Co. あたりもよく聴いてました。中学に入ったら、USに詳しいB-BOYがいて、彼の影響でD12のアルバム『D12 World』を渋谷のHMVで買ったり。50 Centもデビューした時期で、次第にUSのヒップホップも聴くようになりましたね。。

レペゼン:
特に衝撃を受けたヒップホップはありますか?

小田駿一:
それは間違いなく、キングギドラの『公開処刑』ですね。

【キングギドラ – 公開処刑 】

小田駿一:
あの曲の持つおどろおどろしさ。そしてリリックの強烈さに圧倒されました。
「こんな曲を出して大丈夫なのか?」と思うくらい、攻撃的で。大変だこれはと思いました笑

レペゼン:
確かに、あの曲は2000年代世代には本当に衝撃でしたよね。

小田駿一:
そうそう。あの曲を聴いて「ヒップホップってこんなにヤバいんだ」と思いました。その後、ますますヒップホップにのめり込んでいきましたね。

ストリートスナップ全盛期に始めた
フリーペーパー制作

小田駿一:
大学に入るまではバンドをやっていたんですが、結局続けることはなく。大学のバンドサークルに入ってみようとしたものの、しっくりこなくて。それなら何か形に残るものを作ろうと思い、友人たちとフリーペーパーを作ることにしたんです。内容はファッションや音楽、ストリートスナップなど。当時、東京のデザイナーやパーティーカルチャーを取り上げる雑誌が流行っていて、それに影響を受けましたね。

【小田さんが制作に携わっていた 「ADD MAGAZNE」】

レペゼン:
当時は『FRUiTS』や『TUNE』などのストリートスナップの雑誌が全盛期でしたよね。

小田駿一:
そうそう!当時の東京のストリートカルチャーは本当に面白かった。原宿にはてんとう虫みたいな人いっぱいいましたからね笑
まさにその時期にフリーペーパーを作り始めたんです。で、当時誰も周りがカメラを持っていなかったので、仕方なく自分でカメラを買いました。それが写真を始めるきっかけになったんです。

勢いで決めた英国留学。
現地ファッションスナップのスタッフに

レペゼン:
面白いですね。フリーペーパーを作るのはどのくらい続けたんですか?

小田駿一:
大学3年で後輩たちに引き継ぎましたね。ただちょうどその頃、当時付き合っていた彼女が留学すると言い出して。僕は東京に取り残されるかもってなったんですが、彼女から「あなたも留学すればいいじゃない」と言われたんです。それでロンドン行きを決意しました。

レペゼン:
すごい展開ですね。でも、留学資金はどうしたんですか?

小田駿一:
金は全然なかったのでどうしようかなって感じだったのですが、そんな時に、友達が新聞の切り抜きを持ってきてくれて。ある会社がやってる謎の奨学金プログロムがあるから受けてみたら?と言ってくれたんです。そしたらなんとかそれに受かることができて。授業料と渡航費は免除、生活費だけ必要という状態になり、何とかロンドンに行けました。

レペゼン:
すごい笑
ロンドンではどんな活動をしていたんですか?

小田駿一:
何も考えずに行ったのですが、たまたま現地で知り合った人が日本のファッション系のWEBメディアで編集を担当してる人で。その人のお手伝いで、ロンドンのパーティー・スナップやストリートスナップを撮ることになったんです。

レペゼン:
またまたすごすぎです笑
確かに当時、海外スナップ専門で出していた『STREET』をはじめ、その他のファッション誌にも海外スナップのページありましたよね。

小田駿一:
そうそう。あれって現地のバイトリーダーみたいな人がいるんですよ。僕はそういう人の丁稚奉公みたいな感じでスナップ撮ったりしてて。現場で多くの経験を積めました。またファッションイベントやパーティーでセントラル・セント・マーチンズやロンドン・カレッジ・オブ・ファッションの学生とも友達になり、次第に写真の仕事にのめり込んでいった感じですね。

 

プロフィール

  • 小田駿一(おだ・しゅんいち)

    小田駿一(おだ・しゅんいち)

    2012 年に渡英し独学で写真を学ぶ。 2017 年独立。2019 年に symphonic 所属。人物を中心に、雑誌・広告と幅広く撮影。ヒップホップにフォーカスしたマルチモーダル・プロジェクト「BLUEPRINT™」のファウンダー。

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