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ヒップホップ好きのスポーツ選手や文化人のキャリアや仕事について全4回に渡ってインタビューしていく「あの人も実はヒップホップ」。今月のゲストは車いすラグビー、パリパラリンピック・金メダリスト、若山英史(わかやま ひでふみ)さん。Vol.3の今回は大学生の時の事故について、そしてリハビリ期間中によく聴いていたヒップホップソングについてお伺いしました。
前回の記事はこちら→ パリパラリンピック・金メダルの快挙!ヒップホップ好き車いすラグビー選手、若山英史とは?
19歳の夏に頸椎損傷。“マーダーボール”で世界を制した若山選手のライフストーリー
レペゼン:
今回は大学生の時に起きた事故について教えてください。
若山英史:
大学2年生の夏だったんですが、学校のプールで友達と遊んでいたんです。それでプールに飛び込んだりしていたら、プールの床に頭を打ちつけて。全身の体の重みで首がグキってなってしまって。
レペゼン:
その瞬間、意識はあるんですか?
若山英史:
ここから意識が飛び飛びではあるのですが、そのグキッとなってから、「あ、いてぇ」って思って、プールから上がろうと思ったんです。
ただその時にはもう頸椎を傷つけちゃっていたみたいで。下半身は自由が効いていない状態なので、底なし沼にいるような感覚でした。
レペゼン:
底なし沼ですか…。
若山英史:
普通だったらプールの底に足がついているってわかるのに、体の自由が効いていないので、足がつかない感覚なんですよ。とてつもなく深い湖にいるみたいな感覚になって。
だから「上がらなきゃ」って思って、もがくんですけど、口も水の中に入ってきちゃって、なかなか助けもうまく呼べなくて。それで溺れて、意識を失って。
レペゼン:
えぇ。
若山英史:
そしたら友達たちが、「ちょっとあいつおかしくないか?」って気づいてプールサイドに上げてくれたようなんです。そこはちょっと意識がないので、わからないんですけど。
それで、人工呼吸なのか蘇生措置をしてくれて一回意識が戻るんですよね。
友達が救急車を呼んでくれて、病院に運ばれて、ICUで緊急処置を受けました。
「歩けるようにはならない」医者からの宣告
レペゼン:
その後はどういった経過だったんですか?
若山英史:
一週間後ぐらいに手術をして、入院生活が始まりました。そしたらある時、お医者さんから「ちょっと話があるんだけど」って言われて。
1対1で、「多分もう歩けるようになることはないかな」って言われました。
かなりメンタル的には落ち込みましたね。特に夜は一人になるといろいろ考えることもあって。かなりしんどい時間が多かったかなって思います。
レペゼン:
辛いですよね…。
若山英史:
ただ、地元の友達が毎日見舞いに来てくれて、それにかなり励まされた部分があって。皆、多分うちの親から自分の状態を聞いて、知っていたと思うんです。でも、彼らはそれを見せずにお見舞いに来て、「早く病院出られるといいね。」みたいな話をしてくれて。自分も頑張らないとなと。
レペゼン:
仲間の存在が大きかったんですね。
若山英史:
あとは、リハビリの先生から「もう親は先に死ぬし、自分でやることはやらなきゃダメなんだよ」って言われたことも自分の中では大きかったです。「あぁそうだよな」と。それから自分の自立の道をしっかりと目指していこうと思えましたね。
レペゼン:
大変な中、前を向けた瞬間なんですね。リハビリは、特に何が大変でしたか?
若山英史:
まず血圧をコントロールする練習ですよね。1ヶ月近く寝たきりでいると、自分の身体が血圧をコントロールできなくなるんです。それでまずは専用のベッドを使って身体を起こす訓練を始めるんですけど、大体気を失います。その練習が終わると、徐々に椅子に座る訓練や車いすに乗る練習を始めるんです。
レペゼン:
かなり大変ですね…。リハビリはどのくらいの期間されていたんですか?
若山英史:
色んな日常生活ができるようになるまで、まず1年ぐらいかかって。そこからまた頸椎損傷に特化したリハビリ施設で1年半くらいリハビリをしました。なので2〜3年はリハビリでいろんな施設を転々としていたと思います。
つらいリハビリ生活を支えてくれたヒップホップ
レペゼン:
そんな中で励まされたヒップホップの曲はありますか?
若山英史:
リハビリセンターでヒップホップに詳しい方に出会って。その方にCDを焼いてもらって、それをよく聴いていましたね。SOUL SCREAMさんの「蜂と蝶」とか。そのあたりを夜一人の時によく聴いていたと思います。
【SOUL SCREAM – 蜂と蝶】
レペゼン:
名曲ですね。どのあたりが特に好きですか?
若山英史:
曲調ですね。僕、多分リリックっていうより、メロディが落ち着いてる曲が好きなんです。やっぱりそういったしんどい中でも、その曲を聴くとリラックスできるような曲が好きですね。
特に病院はやっぱり夜、一人だと結構色々考えちゃったり、つらくなったりすることも多いので。そんな時にリラックスするために聴いていたと思います。
“殺人球技”の異名を持つパラスポーツ、車いすラグビーとの出会い
レペゼン:
車いすラグビーと出会った経緯を教えてください。
若山英史:
事故から2、3年経った、22〜23歳ぐらいの時に、『Murderball』っていう車いすラグビーのアメリカ代表を追ったドキュメンタリーを観たことがきっかけです。
車いすラグビーって、普通英語では“Wheelchair rugby”となるのですが、別名で “Murderball”って言われるんです。「殺人球技」ってことですよね。その映画で車いすラグビーのことを知ったんですが、そこに出てくる選手が結構やんちゃで。
『Murderball(2005)』
レペゼン:
やんちゃ?
若山英史:
車いすに乗っているんですが、クラブに行って、お酒を飲んだり遊んだりしていて。当時リハビリ施設にばっかり行っていた僕からすると、障害があって、車いすに乗っていても、そういうことができるんだってことに凄く衝撃を受けたんです。
レペゼン:
確かに。
若山英史:
そのタイミングで、当時の日本代表選手のデモンストレーションを実際に観る機会があって。
そこでさらに衝撃を受けたのが、音ですよね。鉄と鉄が当たるんで、近くで見ていると衝撃的な音がするんです。改めて「こんな競技があるんだ」っていう衝撃を受けて。しかも激しく当てているのに、みんなめちゃくちゃ楽しそうなんです。それで、こんな楽しい競技があるんだったら自分もやりたいって思ったのが最初のきっかけですね。