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2019.12.5 Thu

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レペゼンインタビュー:DJ K.DA.B 「単身でNYに渡った男」

湘南のバスケ少年がNYに移住するまでの物語

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あなたは自分の人生を変えたい時、「生きる環境を変える」という選択肢を取ることができるだろうか?

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レペゼンインタビュー第30回目は、「ブルックリンに愛された日本人DJ」として知られ、国内外で活躍するDJ K.DA.B(ケー・ダ・ビー)。現在はラジオDJやライターとしても活動の幅を広げている彼だが、そのルーツは20代の頃に暮らしていたニューヨークにあった。一体どのようにして音楽と出合い、現在のスタイルに至ったのか。そして単身で海を渡った背景とは。彼のターニングポイントを順に追うことで、前向きなパワーに溢れる人生の軌跡を辿る。

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自己紹介、趣味について

レペゼン:
まずは自己紹介をお願いします。

DJ K.DA.B:
DJ K.DA.Bです。1983年8月17日生まれのO型で、神奈川県藤沢市出身です。

レペゼン:
K.DA.Bという名前にはどんな由来があるんですか?

DJ K.DA.B:
Kは本名のイニシャルから、DAはthatという意味のスラング、Bは好きなものの頭文字です。バスケットボールをずっとやっていたのと、ブルックリン出身のアーティストをリスペクトしているので。

レペゼン:
身長と体重、足のサイズを教えてください。

DJ K.DA.B:
182cmで体重は内緒、足は28cmかな。

レペゼン:
ちなみにスニーカーはどこのブランドが好きですか?

DJ K.DA.B:
adidas(アディダス)ばっかり履いてます! ニューヨークにいた頃、ショップでインストアDJをさせてくれってアディダスやプーマに売り込んだ時に最初にやらせてくれたのがアディダスだったんです。DJしてると店員さんやお客さんも踊ってくれて、インストをかけたらラッパーがラップし出しちゃうみたいな。いい思い出です。

レペゼン:
日本ではなかなか想像できない光景ですね。

DJ K.DA.B:
もう10年くらい前のことだから言っていいと思うんですけど、インストアDJのギャラは1時間につき50ドルの物品提供だったんですよ。現金じゃなくて。だいたい1日4〜5時間はやるから、毎週末やってた頃は200ドル分くらいの商品をもらってたと思います。そういう由縁もあって、今でもadidasが大好きですね。

レペゼン:
なるほど(笑)。では次に、利き手を教えてください。

DJ K.DA.B:
左利きです。ただ、幼少期に左手を骨折して使えなかった時期があったので右手も使えます。サッカーは左でやるけどバスケは右。DJする時も右手で擦る方が得意ですね。

レペゼン:
好きな食べ物と嫌いな食べ物は?

DJ K.DA.B:
好きなものは唐揚げとカレーと親子丼。鶏肉が好きってことかな(笑)。嫌いなものはセロリとあんこと黒豆。甘いものは好きなんですけど、和菓子はちょっと苦手で。でも、極貧時代を経てからは嫌いな食べ物も残さないように気をつけています。

レペゼン:
ニューヨークにいた頃のソウルフードはありますか?

DJ K.DA.B:
やっぱりチキンかな。歴代大統領の名前を冠したようなネーミングのフライドチキン屋がいっぱいあるんです。あとはデリで買うサンドイッチ。めちゃくちゃデカいから、朝飯と夕飯で半分ずつ食べたりして。

レペゼン:
音楽以外で、夢中になっている趣味は何かありますか?

DJ K.DA.B:
学生時代からずっとバスケットボールですね。プレイするのも見るのも好きで、今でも週に1〜3回は体育館へ行ってみんなで試合や練習をしています。

レペゼン:
ポジションはどこなんですか?

DJ K.DA.B:
ポイントガードです。『スラムダンク』でいうと宮城リョータのポジションですね。チームのメンバーによってはセンターをやることもあったし、なんかもう全部やってました(笑)。

レペゼン:
応援しているチームは?

DJ K.DA.B:
ステフィン・カリーが好きだからウォリアーズをよく見てるけど、今年から八村塁がウィザーズに行ったり渡邊雄太がグリズリーズでプレイしてたりするので、日本人がいるチームを応援したいなって思いますね。あとは、ケビン・デュラントとカイリー・アーヴィングがブルックリンのネッツに移籍したので、現地に試合を見に行きたいなと。バスケはカルチャーがヒップホップと近いから、僕がやってるラジオ番組でもNBAネタを入れるとリスナーさんが喜んでくれたりするんですよ。

人生グラフ① 少年時代〜ターンテーブルを手に入れる

レペゼン:
続いて、人生グラフでK.DA.Bさんのこれまでを振り返ってもらおうと思います。

DJ K.DA.B:
なるほど。

レペゼン:
まずは少年時代から。どんな子どもだったんですか?

DJ K.DA.B:
とにかく友達と遊んでばかりいましたね。勉強が嫌いだったわけじゃないんですけど、みんなで遊んでる時が何より楽しくて。休日も友達を誘って校庭で遊んでたくらい、学校っていう空間が大好きでした。先生のことも好きだったし、今でも中学の生活指導の先生と飲んだりしますよ。

レペゼン:
音楽に目覚めたのはいつ頃だったんですか?

DJ K.DA.B:
中学の後半くらいかな。当時は『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』がきっかけでダンスが流行ってて、うちの兄貴がよく見てたんです。それを一緒に見たりして。あとは、姉ちゃんが家でよく洋楽を聴いてましたね。その二人から受けた影響は大きいと思います。

レペゼン:
なるほど、それはいい環境でしたね。

DJ K.DA.B:
兄貴と姉ちゃんが家を出てからはMTVで洋楽を漁ってました。Wu-Tang Clan(ウータン・クラン)の「Triumph」っていう曲のPVを見た時に、これはヤバいぞって感じて。そこからDef Jam(デフ・ジャム)が監修した「The Show」っていうドキュメンタリーをVHSで見たりして。当時は洋楽に限らず、スチャダラパーやBUDDHA BRAND(ブッダ・ブランド)など日本の先輩方の曲もよく聴いていました。

レペゼン:
それから、16歳の時にターンテーブルを手に入れると。

DJ K.DA.B:
兄貴が住んでるアパートにたまたま行ったら、ターンテーブルがあったんです。兄貴がDJやってるなんて知らなかったけど、そこで兄貴にスチャダラパーの「アーバン文法」のミックスを見せられて(笑)。DJ面白いかも! 俺もこれが欲しい! って思って、ターンテーブルを手に入れました。

レペゼン:
けっこう練習してたんですか?

DJ K.DA.B:
当時は部活少年だったから、バスケに夢中でそれどころじゃなくて。家にターンテーブルがあってもそんなにいじらなかったです。

人生グラフ② DJデビューを果たす

レペゼン:
そしてその後、18歳でDJデビューを果たすんですね。

DJ K.DA.B:
高校の同級生でスケボーをやってる奴がいたんですけど、そいつの仲間がカウントダウンイベントに出てくれるDJを探していて。そこで俺を紹介してくれて、初めてDJすることになりました。なんと出番が24時からで、カウントダウン後の一発目だったんですよ。そんなの時間帯的に絶対盛り上がるじゃないですか。

レペゼン:
みんな気分が最高潮に達してますもんね。

DJ K.DA.B:
そうそう。たしかNelly(ネリー)の『Ride Wit Me』とか当時のヒットソングをいっぱい持って行ったと思うんですけど、みんな歌って踊ってくれるんですよ。それがすごい嬉しくて、どんどんDJにのめり込んでいきましたね。

レペゼン:
いいデビューだったんですね。

DJ K.DA.B:
そうですね、誘ってくれた友達には今でも感謝しています。

レペゼン:
その後は、日本の大学に入学するんですよね?

DJ K.DA.B:
大学に通いながら、アメリカに行くための費用を貯めていました。バイト代は月のレコード代と毎年一回の海外旅行に費やして。

レペゼン:
最初はアメリカのどこへ行ったんですか?

DJ K.DA.B:
大学1年と2年の時はLAに行きました。レイカーズのチケットが取れなかったからクリッパーズの試合を見に行ったのを覚えています。当時はブッシュ政権だったんですけど、試合の日はちょうどアメリカがイラクに攻撃した日だったんですよ。試合前にスクリーンにブッシュの生放送が映って……。そんな状況でも普通に試合が盛り上がっていたのも衝撃でしたね。

レペゼン:
10代の日本人にしてみたらすごくショッキングな出来事ですよね。LAでは他にどんなことをしたんですか?

DJ K.DA.B:
未成年だったからクラブには入れなかったんですけど、ビーチやストリートをブラブラしていました。でも、藤沢出身で海沿いの街に馴染みがあるからか、LAはなんだか気持ちが落ち着いちゃったんです。ここにずっといたらだらけてしまいそうって。やっぱりニューヨークに行かなくてはと感じました。

レペゼン:
それから初めてニューヨークに行ったのはいつ頃ですか?

DJ K.DA.B:
大学3年の時です。JUNちゃんっていうDJがブルックリンのレコード屋で働いていたんですけど、日本人だ!と思い切って話しかけたら、現地のクラブのこととか色々と教えてくれて。でも、いざ行ってみたらドレスコードに引っかかって入れなかったんですよ(笑)。悔しかったけど、現地のレコードも買えたし大満足でした。

レペゼン:
住みたいという気持ちも高まりましたか?

DJ K.DA.B:
実際に行ってみたら、LAよりも肌に合ってるなと感じました。でも、真冬のニューヨークはどうやらヤバいらしいと(笑)。だから一回体験しておかなきゃと思って、大学4年の冬にもう一度行きました。大雪で極寒でしたね……。

人生グラフ③ 活動拠点をニューヨークへ

レペゼン:
そして大学卒業後にニューヨークへ移住するわけですが、旅行で行くのとはやっぱり違いましたか?

DJ K.DA.B:
学生ビザで渡米して語学学校に通ってたんですけど、まず会話を聞き取れないのが大変でしたね。話せるようにならないと何も始まらないと思ってたから、DJの機材も持って行かずに半年近く毎日学校で勉強してました。

レペゼン:
DJとして活動を始めるまで準備期間があったんですね。

DJ K.DA.B:
やっぱりどうしても人種差別みたいなものはあるし、若いからなめられることも多かったから。バカにされないためにも、英語力をちゃんと身につける必要があったんです。ちゃんと自己主張できないと存在を認められない国なので。

レペゼン:
なるほど。コミュニケーションを取れないことには始まらないと。

DJ K.DA.B:
渡米して半年くらい経った頃からクラブにも通い始めました。最初は高い金を払わされてたけど、仲良くなると意外とみんなサービスしてくれたりして。当時はまだCDの時代だったから、そこで知り合ったプロモーターやDJにデモCDを手渡ししたりもしていました。そうしたらある日、「オープンナップ(イベントの前座DJ)を探してるんだけど、どう?」ってお気に入りのDJから誘ってもらえて。しかもそれがすごく上手くいったんですよ。そこから他のプロモーターも目をつけてくれて、徐々に出番が増えていきました。

レペゼン:
それからはどんどんレギュラーを掴んでいくんですね。

DJ K.DA.B:
週4回くらいイベントに出演して、語学学校に行きつつDJしてっていういいリズムで生活できていた時期もありました。でも、25歳くらいの時にリーマンショックで一気にアメリカが不景気になって。これまで俺が出てたイベントに、高いギャラでしか出てくれないような大御所DJが下りて出てくるようになっちゃったんです。そうすると俺らは居場所がなくなってしまって。月に20本くらいやってたのが、一気に2本くらいまで減っちゃいましたね。

レペゼン:
それでも日本に帰ろうという考えには至らなかったんですか?

DJ K.DA.B:
最初は3年で日本に帰ろうと思ってたから、時期としてはちょうどいいタイミングではあったんですけど、こうやって出番が減ったまま帰国するのは納得いかないなと。それでアメリカ滞在を2年くらい延長しました。

レペゼン:
それから、どうやって活動を増やしていったのでしょう?

DJ K.DA.B:
自分のフライヤーを作ったりMy Spaceにミックスをアップしたりして、プロモーションを頑張っていました。そうしたら26歳の時に、My Spaceを見たMTVの人から『My Super Sweet 16』というMTVの人気ドキュメンタリー番組に出演してくれないかってオファーが来たんです。出演する女の子が日本文化に興味があったらしく、日本人のDJがいたら面白いんじゃないかって。そこから一気に、その放送を見たプロモーターやDJたちに存在を知ってもらえるようになりましたね。

レペゼン:
MTVに見つけてもらえたのも、自分で地道にプロモーションを頑張っていたからこそですよね。

DJ K.DA.B:
そうですね。やれることはやろうと、色々とチャレンジしていました。

レペゼン:
それからは順調に出演本数が増えていったんですか?

DJ K.DA.B:
月25本くらいまで増えましたね。ほぼ毎日DJしてました。

レペゼン:
そして、27歳の時に日本に帰ってくると。帰国後のことについては後編でじっくり聞かせてもらいます!

湘南のバスケ少年から、ニューヨークのDJへと転身したDJ K.DA.B。アメリカの不況という大きな困難にも負けず、地道な努力を続けることで切り抜けてきた。後編では、彼が日本に帰国してからのストーリーやDJとしてのスタイル、今後の野望について迫っていく。DJ K.DA.Bが語る、今のストリートシーンへの熱い想いをお見逃しなく。

後編を読む→

DJ K.DA.B Instagram:djkdab

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