目 次
パーティーを通して人の心を強く揺さぶり続ける人たちがいる。彼らはなぜ、この仕事を選んだのか?このコーナーではパーティーというカルチャーに関わり続ける演出家たちの過去から現在まで続くキャリアを紐解いていきます。
今回は、制作からエンジニアリングまでこなす圧倒的なスキルと、独自のキャリア観でシーンに静かな火を灯し続ける、DJ 純さんのキャリア前編をお送りします。

音楽の原体験は父と姉
SHUNSUKE:
今日はよろしくお願いします!もう子供のころからの付き合いなので、堅苦しくならないように普段通りの言葉づかいでやらせてもらいますね!まず、記憶の奥底にある最初の音楽体験って何だったの?
純:
音楽として認識した最初の一曲は、光GENJIの『パラダイス銀河』ですね。8歳上の姉貴が大好きで、よく聴かされていたんです。それが幼少期に初めて音楽として認識した曲です。
SHUNSUKE:
当時のトップスター!家庭の環境も大きかった?
純:
そうですね。親父もレコードプレーヤーを持っていて、ビートルズやベンチャーズを聴いていました。しかもアキュフェーズ(Accuphase)の老舗アンプを使っているようなこだわり派で。その後、僕が小5〜小6くらいになると姉貴がレニー・クラヴィッツやヴァン・ヘイレンをカセットで聴き始めて、僕も自然と洋楽に触れるようになりました。姉貴とは年が8個離れているので、大人びたというか、色気づいて色々と聴いていたんでしょうね。当時の彼氏の影響もあったのかもしれないけど、色んな音楽を教えてもらいました。

小6の終わりに訪れた日本語ラップと「ムサシ」との出会い
SHUNSUKE:
そこからヒップホップとはどう繋がっていくの?
純:
小学校から中学校に上がるタイミングですね。同級生の「ムサシ※1」っていう奴がいて、彼のお兄ちゃんがラジオの仕事をしていて、小学校の頃からヒップホップを聴いていたんです。集団下校の時に初めてムサシとサシで話して、「これ面白いから聴いてみなよ」って教えられたのが始まりでした。
SHUNSUKE:
当時の小中学生でヒップホップはかなり早いね。
純:
最初に聴いたのはブッタブランドでした。「カッケー!」ってなりましたね。中学ではムサシと一緒に、ヒップホップの普及活動を結構一生懸命してました笑
『ストリートニュース』が全盛期で、レコード袋に荷物を入れて学校に行くのがステータスだった時代です。一方で、姉貴の周りはDJばかりで、ハウスやレゲエの曲とかも降りてくる環境でした。
SHUNSUKE:
凄い懐かしい話だね笑
初めてヒップホップに触れた頃、特に衝撃を受けた一曲を挙げるとしたら?
純:
BUDDHA BRANDの『人間発電所』、その96年の「暖炉Remix」です。Remixという文化も知らなかったけど、あの音に完全にやられました。「DJ WATARAIっていう人が作ってるんだ、超カッコいい!」って、テープがすり切れるまで聴きました。

純:
その頃から昼間やってるパーティーを探し始めて。ムサシと、あともう一人の友達と一緒に、MASTERKEYさんとDJ WATARAIさんがやってたブロックパーティーに潜り込んだんですよ。渋谷のエイジア(clubasia)でやってたパーティだったんですけど、暗いフロアで人をかき分けて歩いてたら、ドンってぶつかった人がBIG-Oさんだったっていう思い出があります。そのパーティで色々と目や肌で感じて、「こういうことやってみたいな」って思ったんですよね。

中3の文化祭で初めて表現したヒップホップ
SHUNSUKE:
DJをやろうと思ったのって、そのパーティに行った頃? いつ頃だったの?
純:
さっきのパーティに遊びに行ったのが中3から高校になるぐらいの頃で「やっぱりDJが一番カッコいいな」と思って。DJの友達がいた姉貴のツテで、その人の家に連れて行ってもらいました。暗い部屋でターンテーブルのスタートボタンの赤いランプが光ってるんですよ。それが妙にカッコよく見えて。「DJってどうやってやるの?」って聞いたら、「ピッチで曲を合わせるんだよ」って教えてくれたんですよね。見た目は恐いけど、みんな優しいなって思いました笑
実際やらせてもらって「うわ、これめちゃくちゃ面白いじゃん」って。でも機材がないから、歳をごまかして地元のレストランでバイトして、ターンテーブルとミキサーを買いました。中3の時かな。ターンテーブルはTechnicsのMK2で、ミキサーはオーディオテクニカの安いやつ。フェーダーがめちゃくちゃ硬い曲者でした笑
ターンテーブルは壊れることなく、いまだに現役です。魂を持ってると思います。
SHUNSUKE:
なるほど。じゃあ、実際に人前で初めてプレイしたのはいつ?
純:
中3の最後の文化祭です。ムサシたちと同級生を誘って即席ユニットを組んで。ライブ用のインスト盤が必要で、地元の「珍屋」の餌箱から200円で掘り当てたのが Rasco – The Unassisted でした。レーベルシールも真っ白なホワイト盤。

SHUNSUKE:
中学生がホワイト盤を掘ってステージに立つって最高だね。しかも珍屋で救出したレコードで! 珍屋について補足すると、国分寺・立川エリアのDJにはお馴染みのレコード店です。私も本当にしょっちゅう通いました。
純:
僕はDJ、ムサシたちがラップ。そして目立ちたかったのかモテたかったのか分からないですが、後の晋平太がステージ下で5日間練習した「ブレイクダンスもどき」を踊るっていうショーみたいなことをしました笑
しかも、それで文化祭の出し物として優勝しちゃったんです。たまたま校長の知り合いで観に来ていた黒人の方が、「お前らヤバいよ! 超ヒップホップ!」って褒めてくれて。「俺たち才能あるかも?」って勘違いしたのが、今に続く大きなきっかけでした。中高一貫の学校だったんですけど、俺たちがその出し物で優勝したのを一つ上の高校生の先輩たちが見てて。その先輩たちは教室でクラブをやってたんですよ。同じ校舎だったから遊びに行ったんですけど、そこに鎮座DOPENESSさんだったり、今では著名な人も結構遊びに来ていましたね。自分たちが文化祭で目立っちゃったことで、学校でも「あいつらヒップホップやってる奴ら」っていう認識になっていったんですよね。
晴れ舞台で感じた違和感と葛藤
SHUNSUKE:
20代になると、理想と現実のギャップも出てきたでしょ。
純:
「DJで食いたい」と必死でしたけど、現実は甘くなかった。憧れのDJ HASEBEさんの背中を追いかけていたけど、なかなか交わることがなかった。それでも頑張ってやる中で、大学の時に西尾ってやつがいて、そいつのお兄ちゃんが「国士無双」っていうグループをやっていたんですけど、その流れでHARLEMの水曜のイベントでDJをやらせてもらえることになったんです。当時のHARLEMは、ほんの一握りのDJしか出演できない場所だったし、自分にとっては大きな出来事だったけど、感じることも多かった。集客の大変さや、当時のクラブシーンと日本語ラップシーンの分断みたいなことをひしひしと感じてしまって。同じカルチャーなのに、別の世界みたいになっていた。それを感じた時に「DJで食うのはいいかな」って思っちゃったんですよ。
SHUNSUKE:
それ、応援しに行ったの覚えてるよ。凄い緊張したって言ってたね笑
でも、そこでそういう感情になっていたっていうのは全然気が付かなかったな。
純:
そうでしたっけ? 何か言ったような気もするけど、ちょっと面白くないなって感じちゃったんですよね。時代も今とは違うし、当時のルール的なものだったんでしょうけど。クラブDJとして勝負するっていうのは、そこで辞めた感じがします。当時、出るだけで凄く注目されたHARLEMに出たことで、満足感みたいなものも出てしまったのかもしれないですけどね。
SHUNSUKE:
じゃあ、ビートメイクを始めたきっかけは何だったの? やっぱり身近な仲間がラップをしていたから?
純:
本格的に「ビートを作ろう」と決意したのは20歳くらいの頃ですね。きっかけは、姉貴に連れて行ってもらった八王子の「SHELTER」というクラブでの出会いでした。そこにコウシ君という先輩DJがいて、スクラッチがめちゃくちゃ上手くて、さらにMPC2000を持っていたんです。それを見て「ビート作りてぇ!」と火がつきました。
SHUNSUKE:
当時はプロデューサーとDJを兼業する人達の 活躍も目立っていた時期だよね。
純:
そうですね。DJ CELORYさんのプロデュースワークやDJ SPINNAが大好きで。DJ CELORYさんがリミックスしたOCの『Word Life Remix』のような音を聴いて、「自分でもこういう音を作ればいいんじゃないか」と。でも当時はMPCが高くてすぐには買えなかったので、お金を貯めて AKAI MPC2000XL を手に入れました。

SHUNSUKE:
そこから実際の制作にどう繋がっていったの?
純:
ちょうど晋平太がBBOY PARKに出始めた頃で、RUDEEZ KIZZ(※1)としてCDを出す話が持ち上がったんです。僕自身まだビートがまともに作れなくて、「今すぐ曲が必要だ、どうしよう」となった時に紹介されたのが、晋平太の兄貴のバンドでベースを弾いていた、現在の僕の相方であるスミノフ君でした。彼の家にあったMacを使ってDTMの走りみたいなことを始め、二人三脚で作ったのがRUDEEZ KIZZの『ZION』や晋平太のソロ『SHOW ME LOVE』でした。
SHUNSUKE:
つまり本格的にビートを作り出したのは20〜21歳くらいの頃だったんですね。出会った頃にはもうビートを作っていたイメージが強いので、作りまくっていたのかと思ってたけど、その時期にビートメイカーとして走り出した感じだったんだね。



ヒップホップでお金を稼ぐということ
SHUNSUKE:
駆け出しの頃っていうのは中々お金にはならないわけだけど、どうやってモチベーションを保ってたの? 苦労していた時代に印象に残っている出来事とかってある?
純:
恵比寿のMILKというお店で、SHIFT君という方が開催していた『HARVEST』っていうイベントにRUDEEZ KIDZで呼ばれた時のことですかね。爆発前夜のMSCや降神、韻踏合組合とかが一同に会する凄いイベントでした。売れる直前というか、世の中に名前が知れ渡る直前の状態。その現場で韻踏合組合のメンバーが、CDを手売りでメチャクチャ売りまくっていたんですよ。あれは凄く印象に残ってる。「ハスリンしてるな〜」って本当に思ったし、沢山の人が買っていた。熱量しか感じなかったですね。当時お金は全然なかったけど、「俺たちもインディーでやってやる」って決意を固めた出来事のひとつでした。

出会いを無下にしない「一期一会」の精神
SHUNSUKE:
今、お金がなかったっていう話が出たけど、食えない時期をどう生き抜いたのか。今の若い世代にも響くヒントがあると思うので、何かあれば聞かせてほしいです。
純:
二つあって、一つは「プロとしての自覚」。まだそんなにお金が稼げていなかった頃の話です。
当時、自分の家には結構レコーディング環境が整っていたんですけど、とあるご縁で Carl Meeks(カール・ミークス)っていうレゲエのアーティストのダブをうちでレコーディングすることになったんです。その時に国内のレゲエアーティスト、それはもう沢山の人がダブ録音のためにうちに来たんですけど、彼らみんな、きちんとお金を払っていったんですよ。僕の知る当時のヒップホップの世界では、そういうレコーディングでお金を払っていく人たちって、正直全然いなかった。
だからこそ、彼らが決して余裕があるわけではない中から、少ないながらリスペクトとして対価をちゃんと払う姿を見てハッとしたんです。「お金をもらった時点でプロなんだ」という線引きを、自分の中でしなきゃいけないって強く思いました。お金をもらって仕事をするっていう感覚をあまり持てないまま続けていたので、「リスペクトという気持ちがお金という形で示される」ということに気が付いたのは、僕にとって凄く大きなことでした。それ以来、自分の仕事にも誇りを持って、きちんと対価を求めるようになりました。

純:
もう一つは……というか一番は「人との出会い」です。クラブDJに対して色々なことを感じてしまって、この先の未来に不安だった時期、不思議と同じようなことを感じて悩んでいた人たちと出会う機会が多かったです。そういう人たちと「いけんじゃね?」って傷を舐め合っているうちに、傷が不思議と癒えたんですよね。前向きになれた。
もっと言うと、DJだけで食おうとしなくなってから、逆にコミュニティが広がりました。音響や制作、地方のローカルパーティー……色々な場所や方法で音楽を続けていくことはできると気が付いた。都心で活動することだけがすべてじゃないし、形が変わることはカッコ悪いことじゃないって思えた。そういう繋がりがだんだんきちんとした仕事と言えるように変わっていったんですよね。20代前半で登った道玄坂を、20年以上経っても今なお登りながら、胸を張って「音楽をやってる」と言えることが何より嬉しいです。
SHUNSUKE:
結局、死ぬほど好きじゃないと続けられない世界だからね。
純:
本当にそうです。だからこそ、出会った人を無下にしないこと。僕の場合は、それで沢山の仕事に繋がった。なんでもない出会いを大切にしたことで、数年後にチャンスに変わった。昔の人が言った「一期一会」という言葉、今になってその深さが身に染みています。好きなことをとことん深掘りして、人を大事にする。それが人生の成功への近道だと信じています。

※1ムサシ(634)後にネオ字音というクルーで活動を共にするラッパー。数年後、SD JUNKSTAへ在籍。
※2晋平太とOJIBAH(オジバ)(現SD JUNKSTA)の2MCと、プロデューサーのZIPSIES(Suminof & DJ Jun)からなる日本のヒップホップユニット
プロフィール
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サウンドデザインチームZIPSIES(ジプシーズ)の一人として、SUMINOF(Hirakawa Tomoyuki)と共に多方面へ楽曲提供。関連作品は200タイトル以上になる。 提供先には般若、呂布カルマ、田我流、柊人といった日本を代表するアーティストに加え、三越伊勢丹やKADOKAWA、NTT都市開発、D-LEAGUEやF-LEAGUEなど大手企業や団体に加え民放キー局にも楽曲提供。 2021年CookinSoulやPeteRockといった世界的プロデューサーがジャッジするビートバトルで二度、世界二位に入賞。 現在DJ、レコーディング、ミックス、マスタリングから音響まで幅広い分野で活動するかたわら、自身の培ってきた繋がりや、地元を生かしたイベントを主催している。

