死ぬ時にDJに対して完全燃焼できたと自分に言えるのか。しっかりと突き詰めたい。

新潟に拠点を置きつつ、国内全域で活動を続けるDJ KENKENのキャリアとは?

ライター:DJ SHUNSUKE

パーティーを通して人の心を強く揺さぶり続ける人たちがいる。 彼らはなぜ、この仕事を選んだのか? このコーナーではパーティーというカルチャーに関わり続ける演出家たちの過去から現在まで続くキャリアを紐解いていきます。 今回は新潟を拠点に活動しながら都内でもレギュラーイベントを持ち、先日はアトランタへ長期滞在してきたDJ KENKENさんにお話を伺います。

DJ SHUNSUKE:
まずは自己紹介をお願いします。

DJ KENKEN:
DJ KENKENです。DJ歴は15年、新潟を拠点に活動しています。

深夜ラジオとカセットテープから始まった音楽体験

DJ SHUNSUKE:
記憶の中で、最も古い音楽体験を教えてください。

DJ KENKEN:
中学生の頃に深夜のラジオ番組で今の人気ソングランキング、J-POPのコーナーがあってそれをカセットに録音してました。間のトークは入らないように録音開始と停止ボタンのタイミングに集中して、J-POP BESTみたいなカセットを作るのが楽しかったです。

DJ SHUNSUKE:
割と昭和、平成初期の生まれの世代はこの録音方法を経験してきた人が多いですね!ではDJに対する原体験みたいなものってなんなんですか?

DJ KENKEN:
僕には10個くらい歳の離れた親戚がいるんですけど、その友達がロックのDJをしてる人で。よく遊んでもらってて、高校生になってからDJの機材を実際に初めて見た時は「やっぱりかっこいい!」と思いました。

DJ SHUNSUKE:
そこからDJに興味を持ったんですか?最初は音楽ジャンル的にはロックが中心だったんですか?

DJ KENKEN:
はい。その親戚の有人の影響でロックに興味がでて、初めて買ったレコードはRancid(ランシド)とThe Clash(クラッシュ)の2枚だったと思います。でも当時は高校生でしたから、ターンテーブルは1台しか買えませんでした。針もなかったので、レコードも聞けずしばらく部屋のターンテーブル1台を眺める生活が続きます。数ヶ月頑張ってバイトしてミキサーともう1台ターンテーブルを買って、全部揃った時は嬉しかったですね。

↑初めて買ったレコード

RancidとN.W.Aの衝撃

DJ SHUNSUKE:
ロック少年だったKENKENが、当時特に衝撃を受けた楽曲を教えてください。

DJ KENKEN:
Rancidの「Life Won’t Wait」というアルバムですね。ゴリゴリのパンクバンドなのにレゲエっぽい曲があったりして、ロックが好きだった自分でもカッコイイと感じさせられました。ロックってハードな曲!みたいなイメージだったんですけど、ぶち壊されましたね。

DJ SHUNSUKE:
Rancidの最高傑作アルバムという人もいますよね、「Hoover Street」とか凄い聞きました。じゃあヒップホップでは同じようなインパクトを受けた曲ってありますか?

DJ KENKEN:
ヒップホップで最初にくらったのはN.W.Aの「Fuck The Police」ですね。当時一緒にいた先輩たちから教えてもらった感じです。

West CoastとChicano Rapから始まったDJ人生

DJ SHUNSUKE:
DJを始めるに至った経緯を教えてください。

DJ KENKEN:
高校を中退した頃に地元の先輩とよく遊んでたんですが、その先輩がLowriderやってて。それで自然とWest CoastやChicano Rapを聞く様になりました。さっきN.W.Aの「Fuck The Police」にインパクトを受けたって話しましたけど、そういう時期に出会った曲です。先輩がラッパー、ダンサー、DJのクルーを作って、僕はそこにDJとして入った事が現場デビューへとつながりました。長く続いたクルーではなかったですけど、この出来事は大きな出来事だったのかなと思ってます。

DJ SHUNSUKE:
これまで、地元での自分の立ち位置などをどういう風に変化させていったんでしょうか?

DJ KENKEN:
キャリアのスタート時はやっぱり下積みというか、早い時間のみのプレイとかが殆どですよね。経験を少しずつ積み上げていった感じです。本当にゆっくりでしたが、信頼を得てフライヤーのクレジットとかプレイタイムも良い時間に変わっていきました暫くの間、新潟のシーンはヒップホップ箱とオールミックス箱で大きく別れていて、多くのDJは出演がどちらかに集中してるDJがほとんどだったんですが、自分はとにかく毎週DJしたかったのでヒップホップ、オールミックス、両方のパーティに出演しつづけていました。どちらの箱でも少しずつ信用して頂ける様になってきて地元での立ち位置も少しずつ変化してきた中で今は県外でもDJをさせてもらい、そこでもしっかりplayして、後に続く後輩のDJにも見てもらえる様に毎回気合いいれて取り組んでいます。

DJ SHUNSUKE:
なるほど。両方のパーティに出て得られた最も大きな財産って何ですか?

DJ KENKEN:
東京や全国から来る様々なアーティストと繋がったり仲良くなれたりした事が一番の財産です。特にDJ Chin-Nenさんとの出会いは僕に多くの変化をおこしてくれました。今の活動スタイルにも反映されているので、やってきて良かったなと思っています。

死ぬ時にDJに対して完全燃焼できたと自分に言えるのか?

DJ SHUNSUKE:
長くキャリアを重ねられてきましたが、これまでにDJを辞めようと思ったことはありますか?

DJ KENKEN:
20代前半の頃に結婚を機に一回やめてます。当時はPCDJの方もいましたがまだまだレコード主体だったので、結婚してレコード買ってられないなと。3年しないうちに離婚したんで、そこからまた再開した流れです。

DJ SHUNSUKE:
レコードは経済的な圧迫が半端じゃないのは事実ですしね、家庭を持ってバンバンレコード買うのは物理的には無理ですね、きっと。離婚っていうイベントも経験しつつ、現場復帰してから今まで続けてこられた理由は何だったんでしょうか?

DJ KENKEN:
再開してからは、PCDJに移行してオープンフォーマットという言葉を聞く様になって、ヒップホップだけじゃなくて色んなジャンルを聞く様になりました。DJしててやっぱり自分の中で自信をもって納得できる様になる為に続けてきて、気づいたら何年も経過してました。今って感じです。納得できたら終わりな気もしますが笑
まだ何も成し遂げてないですし、死ぬ時にDJに対して完全燃焼できたと自分に言えるのか?突き詰めたいって思ってます。

DJ Chin-Nenとの出会い、六本木LINEClubへ

DJ SHUNSUKE:
DJキャリアにおけるターニングポイントや、印象深い出来事があれば教えてください。

DJ KENKEN:
先程も少しお話ししたんですが、DJ Chin-Nenさんとの出会いですね。新潟市のクラブでDJ Chin-Nenさんがレギュラーゲストとして毎月出演されていたパーティがあったんですけど、そこでご一緒させていただいた際に仲良くなって。Chin-Nenさんは当時六本木にあったのLINEClubで木曜日のレジデントをされていたので、そこに出演させてもらえたんです。それが自分の中ですごく大きな出来事でした。

↑DJ Chin-Nenとの一枚

印象深い出来事っていうと絞るのは難しいんですが、LINEClubでのエピソードですかね。初めて東京でのプレイで、早い時間でお客さんもいないんですけど、緊張でプレイ前にめちゃくちゃお腹痛くなってたのを今でもハッキリと覚えてます笑

DJ SHUNSUKE:
僕らが最初に会ったのもLINEClubでしたね。あそこは始めてプレイするってなるとかなり緊張するお店です。僕も土曜参加してましたがいつも緊張してました。

↑LINEClubのレジデントDJを務めていたDJ YAZとの一枚

新潟に拠点を構えながらも東京でレギュラーイベントを持ち続ける意味

DJ SHUNSUKE:
KENKENさんは新潟在住ながら足しげく東京へ通い、レギュラーイベントもお持ちですよね?それなりに距離のある地域間を移動してまで都内でのレギュラーパーティに出続ける理由って何ですか?

DJ KENKEN:
新潟だけだとプレイヤーの数やイベント内容もどうしても限定的になってしまう部分があるんですよね。特に自分はめちゃくちゃ頭が固いので、同じ環境だけで活動してると考え方もプレイスタイルも凝り固まってしまう怖さを感じています。そういう事のないように、常にいろいろなものを吸収して、それを地元に還元していきたいという気持ちから色々なエリアへ足を延ばしてDJさせてもらっているというのが一番ですかね。なので、東京や関東だけでしかDJをしないっていう考えは全くなく、常に地元のパーティへ出演し続けるという意識は強く持っていますね。地元がレベルが低いとかは全く思わないですけど、やっぱり最前線で起きている事を知ったり、音楽的なIQの高い環境で一流のDJの方はもちろん、色んなDJの方と一緒に出来るって事は感性を凄く刺激されます。色々な人と話すたびに、DJプレイだけじゃなくて音楽への考え方や向き合い方など、自分の甘さを痛感します笑

↑六本木IBEX TOKYOでの一枚

アトランタで感じた音楽とコミュニティの力

DJ SHUNSUKE:
先日はアトランタに長期滞在されてきたと伺いました。日本との違いってどんなところでしたか?

DJ KENKEN:
音楽やDJの存在が生活の一部になってると感じました。距離感が近いというか、現地の方に聞いた話では、食べ物屋さんでも混む日はDJ入れてるお店があったり、自分がスーパー行った時には店内でかかってる曲を店員さん皆んなで歌いながら品出ししてたり笑
滞在ホテルの隣が車の修理工場だったんですけど、週末にDJ入れたイベントやってたりしました。日本とはそもそも音楽への感覚みたいなものが全然違うなって感じました。歯磨きをしたり、お風呂に入ったりするように、音楽と触れ合ってるんですよね。音楽がある事が当たり前なんでしょうね。

DJ SHUNSUKE:
毎晩夜中はクラブに行ってたようですけど、どういう印象でした?

DJ KENKEN:
クラブでは基本的にほぼアトランタの曲がメインにプレイされてた印象です。ヒップホップ箱で黒人の方が行くクラブしか回ってないのもありますが、本当に地元のコミュニティの強さというか、アトランタの音楽や街に対する愛情を凄く感じました。現地の人も本当に暖かく接してくれて、幸運な事にDJをする機会もいただけました。サザンホスピタリティという南部特有のおもてなし文化に凄く感動しました。

力を合わせてもっともっと新潟のシーンを盛り上げたい

DJ SHUNSUKE:
今、力を入れている活動や未来へのビジョンを教えてください。

DJ KENKEN:
今は、アトランタで得た経験をDJプレイにしっかりと落とし込みたいですね。感じたあの雰囲気やパーティ感を自分のフィルターを通してどう表現していけるのかって事を考えてます。未来としては、新潟で今一緒に頑張ってる仲間と来年からスタートさせるプロジェクトを企画中です。新潟はDJ、ラッパー、ダンサーがうまくまとまれば凄く大きなパワーになると思ってます。地元のシーンをもっと盛り上げられるように動いていきたいなと。

DJ SHUNSUKE:
最後に、これから地元のクラブシーンに入ってくる若い世代へメッセージをお願いします。

DJ KENKEN:
分からない事があればサポートしますので、熱い気持ちを持ってどんどん入ってきて欲しいですね。新しい感覚を持っているはずですし、今の世代だからこそ出来る事もあると思うので、自分を信じて、良い意味で暴れて欲しいですね!

 

プロフィール

  • DJ KENKEN

    DJ KENKEN

    新潟を拠点に活動するDJ KENKEN。地元新潟でのプレイはもちろん、東京では六本木での月間レギュラーを持ち、渋谷、歌舞伎町など多様なカルチャーが交差する主要エリアでも活躍の場を広げている。青森や沖縄など全国各地でもブッキングが絶えず、数千人規模の野外レース、カーイベント、スノーリゾートでのパーティなど、フィールドを選ばない柔軟さと対応力で支持を集めている。2023年には名古屋で開催された“パーティロックナンバーワン”決定戦のバトルで決勝に進出し、その確かなスキルとパフォーマンス性が話題に。さらにアメリカ・アトランタでのプレイ経験により海外の空気も取り込み、DJとしての感性を磨き続けている。HIPHOPを軸にしながらも、現場に応じて自在に空気を操るプレイスタイルは、多様なシーンで高い評価を得ている。

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