目 次
パーティーを通して人の心を強く揺さぶり続ける人たちがいる。
彼らはなぜ、この仕事を選んだのか?
このコーナーではパーティーというカルチャーに関わり続ける演出家たちの過去から現在まで続くキャリアを紐解いていきます。
今回のゲストは、大阪のクラブシーン最前線で20年近くにわたって活躍し、過去にはRedBull 3stylesで日本代表にも輝いた実績を持つDJ B=BALLさん。
ここ数年は各地でのギグに加え、[STUDIO GENRE BNDR]を拠点とするプロデューサー業にも力を入れるなど、常にチャレンジングな姿勢を見せている彼の知られざるキャリアに迫ります!

音を聞いただけで飛ばされて…
そこからどっぷりです。
レペゼン :
よろしくお願いします。まずは自己紹介からお願いします。
B=BALL :
DJ B=BALLです。1983年2月7日生まれで、出身は大阪の島本町という京都と大阪の境目くらいにある町です。10歳から兵庫の丹波篠山という田舎の方に移住し、18歳で音響の専門学校に通うため、また大阪に出てきました。そこではレコーディングを専門に学びました。
レペゼン :
音楽界への道は10代から始まっていたんですね。音楽に興味を持った原体験はなんだったんですか?
B=BALL :
年が離れた姉がいるんですが、僕が小学生くらいの時に姉が聴いていたものを通して音楽に触れていきました。特にのめり込んだのは、BOØWYとかTHE BLUE HEARTSとか、あとX JAPANとか、ああいう頃のROCKです。
レペゼン :
HIPHOPに出会ったのは、もう少し後なんですね。
B=BALL :
はい。しかもHIPHOPに出会ったのは、音楽ではなくファッション先行の出会いだったんです。18歳くらいの時に好きだったのがLinkin Parkみたいなヘビー寄りのバンドだったんですけど、そういう人たちが着てたストリートファッションに興味が出て、大阪・堀江の[FIVE STAR](*)に行ったんです。そこの店内でかかってる音楽がめっちゃかっこよくて、「なんていうジャンルなんやろ?」って調べたらHIPHOPやったんです。
※ … 堀江に店舗を構える大阪のストリートファッションの最大手。US買い付けの洋服からオリジナルアイテムまで幅広く揃うことで知られ、関西のアーティストにとっても御用達。
レペゼン :
逆にそれまでは意識してHIPHOPを聴くことはなかったんですか?
B=BALL :
「ヒップホップって「DA・YO・NE」系のやつ?」くらいの解像度でした笑
店で流れていたHIPHOPに出会ったのを機に、熱心に聴くようになりました。
レペゼン :
そのなかでも特に好きだったアーティストは覚えていたりしますか?
B=BALL :
初めて買ったレコードは2Pac『ALL EYEZ ON ME』です。特に1曲目の「Ambitionz Az A Ridah」は特に衝撃を受けましたね。当時アーティストとか曲の背景とかは全然知らなかったけど、音を聞いただけで飛ばされて……そこからどっぷりです。レコードやテープを集めては聴いていました。
パーティに遊びに行くと
一瞬で友達ができる時代だった。
レペゼン :
熱心なHIPHOPリスナーになったB=BALLさんですが、DJを始めたきっかけはなんだったんですか?
B=BALL :
当時の専門学校の友達がターンテーブルのセットを持っていたので、自分も同じものを揃えてみたんです。そうなるとちょっとDJっぽいこともできるから、自分で聴く用として、一発どりでミックスをレック(録音)したりしてました。
レペゼン :
ミックスのレコーディングがDJとしての第一歩だったわけですね。人前でのDJ披露はどんな場所で?
B=BALL :
友達のイベントで回すこともあったんですが、ちゃんと定期的に回すようになったきっかけは、アメ村の洋服屋さんです。店内にDJセットが組んであったんですが、そこの店員さんと「趣味でレコード買って、たまにDJもしてて」って話をしてたら、週末の営業中にDJさせてもらうことになって。さらに、その店員さんが主催する帯のパーティでDJさせてもらうようになったのが、初めてのレギュラーでした。
レペゼン :
僕がB=BALLさんを知った時には、既にあらゆるクラブで回しているカリスマDJ的な存在だったんですが、そうやってキャリアを積み重ねてこられた流れも気になります。

B=BALL :
僕が活動し始めた2000年代初頭って、今とはまた違った感じでHIPHOPに勢いがあったんですよ。町を歩けば、どこでもJay-ZとかDMXが聞こえてくるような。そういう時代の空気感も手伝って、パーティに遊びに行くと一瞬で友達ができていきました。
レペゼン :
今ではアパレルや飲食店でHIPHOPが流れることは当たり前ですが、その土台になったのがこの頃かもしれませんね。
B=BALL :
ちなみに専門卒業後、二十歳くらいの時にPAとして働いていた堀江のライブハウスで自分もイベントを打たせてもらっていたんですが、それを地道に続けていくうちにDJの先輩と仲良くなったのが、いろんなクラブで回すようになったきっかけかもしれないです。
レペゼン :
なるほど。それにしてもB=BALLさんの若手時代のお話は新鮮です。
B=BALL :
こうやって振り返ると、ちゃんと下積みしてますね笑
先輩DJの姿を見て「これは仕事なんやな」
という自覚を持った。

レペゼン :
B=BALLさんのキャリアにおいて、特に影響を受けた存在はどなたですか?
B=BALL :
大阪の先輩のDJ GEORGE君とか下拓さんとの出会いを経て、「これって仕事なんやな」って自覚をちゃんと持ったことは大きいです。アメ村のクラブ[GrandCafe]でやっていた「OSAKA SAFARI」という超ビッグパーティにレギュラーDJとして入れてもらった時に、一流のクラブで仕事としてDJされている先輩方を見て、意識が変わった感覚があります。
レペゼン :
アメ村の大きなクラブで回すようになったことで、お客さんからの反応やパーティ全体の空気感も変わるものなんでしょうか?
B=BALL :
変わりましたね。少し難しい話になりますが、自分らがやっていたのは文化祭の延長のような、いわば“イベント”で、大阪の名だたる先輩DJたちがやっていたのは“パーティ”だったんです。
レペゼン :
興味深いです。“イベント”と”パーティ”の違いとは、ズバリなんですか?
B=BALL :
イベントはどちらかというと、DJとかラッパーが主役となって見せ物としてやっているという感じがあって、お客さんも「 ◯◯さんを見に来た」というモチベーションなんですね。一方で、パーティは、お客さんがその空間自体を目当てにしているんです。誰がゲストだとしても、その雰囲気ごと楽しみに来てくれているというか。
レペゼン :
なるほど。そこで得られる経験そのものに価値を置くのがパーティなんですね。大阪のビッグパーティの話が出ましたが、大阪のクラブシーンやプレイヤーの性格は、B=BALLさんにはどう映っていますか?

B=BALL :
まず大阪はクラブの数が多くて、お客さんが平日でも多いと思います。横浜に次いで人口が多い街だけありますね。
それからエリアごとに空気感が違うのも大きな特徴の1つです。梅田とミナミ(心斎橋周辺)では雰囲気がガラッと変わるし、ミナミの中でも西心斎橋と東心斎橋(*)でも全然違いますね。
※筆者注 … 難波から梅田を南北に走る道路「御堂筋」を挟んだ東側と西側。西心斎橋はいわゆるアメリカ村。
レペゼン :
「エリアごとの空気感の違い」で思い出しましたが、B=BALLさんはそれこそいろんなエリアのいろんなクラブで回されていますよね。そうやって街を縦断してプレイされているのは唯一無二と言えると思います。そうなった理由はなんだと思いますか?
B=BALL :
なんででしょうね笑
今は週に6回DJさせてもらっているんですが、たしかに毎日被ることなくいろんなクラブでやらせてもらっていますね。でも何か意識したり計算したりとかは一切なくて、自然にこうなっていました。ありがたいです。
お客さんの”年代”でも幅を見せていきたい。

レペゼン :
次に、「STUDIO GENRE BNDR(スタジオ・ジャンル・ベンダー)」について。どういう経緯で生まれて、どんなことをされている場所か、教えていただけますか?
B=BALL :
DJ向けのアパレルとして展開している『GENRE BNDR』という東京母体のブランドあるんですが、そのスタジオ版として2年半くらい前にスタジオをオープンしました。ただビートだけ作ってそこに声を乗せてもらうという作業だけではなく、トラック作りからレコーディング、マスタリングまで、曲作りに関する一通りのことをここで完結できるようにしています。僕自身、そういうことができる場所が欲しいと前から思っていたのも大きいですね。
レペゼン :
トラックメイクからレコーディングまでできるプロデューサーは国内では少ないんじゃないかと思うんですが、誰か参考にされている方はいますか?
B=BALL :
モデルにしている人は特にいないですけど、僕、BACHLOGIC(*)のファンで。海外だとThe Neptunesですね。
※SALU、AKLO、NORIKIYOなど多数のアーティストの楽曲を手掛けてきたプロデューサー。歌い手「鋼田テフロン」名義でも知られる。
レペゼン :
なるほど。まさにトラックも作るしプロデュースもするし、なんなら歌も歌えてしまうような笑
B=BALL :
僕は歌は歌わないですけどね笑
自分が好きなプロデューサーの影響はあるかもしれません。

レペゼン :
DJ&プロデューサーという2つの顔を持つB=BALLさんですが、最近挑戦していることや、新しく勉強されている分野はありますか?
B=BALL :
新しい分野に広げることはないんですが、音楽の制作ってどんどん進化していくから一生インプットとアウトプットを繰り返す世界なんです。だから常に新しく出てきた情報を勉強しています。
レペゼン :
「新しく出てくる情報」というと、具体的にどういったものなんですか?
B=BALL :
例えば音楽制作に関するプラグイン(*)ですね。次々新しいものが出てくるから、ビートを作ってる人と会うとずっとその話になりますよ笑
※ソフトやブラウザに新しい機能を追加できる拡張プログラム。
レペゼン :
オタク同士の会話ですもんね笑
最後に、B=BALLさんが目指しているDJ像をお聞かせください。
B=BALL :
僕らDJって、お客さんと一緒に年をとっていってるわけじゃないですか。多くのクラブは若い子が主役のところが多いけど、音楽自体は若者だけのものじゃないと思うんです。もっと大人が遊べるところがあってもいいなと思う。明確に世代で分けて遊ぶ!というつもりはないけど、大人も遊べる空間はこれからも作っていきたいですね。そこで、「EARLY2000’s」という、00年代の曲縛りのパーティを年一くらいで実験的にやったりしています。

レペゼン :
「EARLY2000’s」は、かつてクラブでバリバリ遊んでいた世代が大集合する同窓会的なパーティだとうかがいました。そういった定期的に帰ってこれる場所というのは、みんな欲しているのかもしれません。
B=BALL :
なんというか、そういうお客さんの“年代”でも幅を見せていきたいんですよ。今の若い子たちにも刺さって、大人世代も満足させられて、さらにはキッズ世代にも届けられるような。
レペゼン :
これまでの時代の移り変わりを肌で体験されて、さらに今、いろんな界隈でプレイされているB=BALLさんだからこそできる動きですね。これからもコンセプチュアルなパーティを生み出されることを楽しみにしています。本日はありがとうございました!
プロフィール
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2000年代初頭より大阪を拠点に、名もなきOpen Up DJから10数年、欧米、アジアでのDJツアーを成功裏に収めるなど活動のフィールドを劇的に拡大した現在に至るまで、その過程は決して平坦ではなかったが、常にクラブシーンの新たな刺激、潮流に着目し、日本人DJとしてのアイデンティティに拘り、己のセンスのみを拠り所に様々なジャンルを縦断、吸収。プロデューサー業もこなし、気の遠くなるようなトライ&エラーを繰り返しながら一歩ずつ着実に進んできた彼の道のりは、変化を恐れなかった表現者だけが手にすることのできる、気高いクリエイティヴィティに充ちている。著名DJコンペティションで日本王者に輝くなど幾多のタイトル、1 DJによるDJingの可能性を追求したクラブイベント「One Band」開催、Amazon Primeの人気番組オープニング曲提供、メジャー・アーティストの楽曲制作など、姿勢のみならず明確な「結果」を示し、純粋な音楽の力を武器に己の存在を証明し続けるDJ B=BALLの活動からは、常に昨日よりも進化し続けるDJカルチャーの未来を感じ取ることができるはずだ。

