ヒップホップ好きのスポーツ選手や文化人のキャリアについて全4回に渡ってインタビューしていく「あの人も実はヒップホップ」。今月は長野県長野市に拠点を置く株式会社Huuuu代表、編集者の徳谷柿次郎(とくたに・かきじろう)さんにお話をお伺いしました。Vol.3では二度の上京、そして起業までのお話しをお伺いしました。
前回の記事はこちら→ 株式会社Huuuu代表、ヒップホップ好き編集者・徳谷 柿次郎とは?
失敗をバネに、再上京
――柿次郎、26歳の決断
レペゼン:
今回は2回にわたる上京についてお聞きしたいと思います。
徳谷柿次郎:
一度目は23歳の頃に音楽ライターになりたいって大阪を飛び出した時です。ちょうどその頃、当時の彼女から「今後、私たちどうなるの?」って心配されて。もう言い訳するように「上京してライターになる」って言って10万円だけ持って大阪を飛び出ました。ある種、背水の陣状態で頑張ろうとしてて。
レペゼン:
なるほど。
徳谷柿次郎:
それで東京の友達の家に転がり込んだものの、1~2ヶ月経っても仕事もないし。
2~3ヶ月ズルズルしてたら、遠距離恋愛した彼女にも振られるみたいな。超ダサいですよね笑
振られたあたりで挫折して、1回目の上京が失敗したという感じです。だから2~3ヶ月くらいしかいなかったですね。ただ全部失っただけで。
レペゼン:
大阪に帰ってきてからは、どうしたんですか?
徳谷柿次郎:
もう一回、松屋に復帰しました笑
もう松屋しか居場所がなかったんです。一応、細々と東京のメディアと記事の企画・制作の仕事もやってましたけど、月に5,000~1万円くらいの仕事で、もちろん食えない。だからまた松屋で2~3年働いて。2回目に上京したのが26歳の時です。
レペゼン:
この2回目の上京のきっかけは何だったんですか?
徳谷柿次郎:
「オモコロ」っていうお笑いのポータルメディアがあって、僕も大阪にいる時から繋がって編集メンバーとして少しだけ手伝っていたんです。そこの編集長のシモダテツヤっていう僕の1個上の人がいるのですが、その人から「いつまでお前は松屋でバイトしてんねん。ライターやりたいとか言いながら書いてないやんけ」って指摘されて。
で、ある日エクセルが送られてくるんです。それを開くと、半年で50万貯める為のめっちゃシンプルな収支シートで。
レペゼン:
笑
徳谷柿次郎:
そこから、朝8時から深夜1時くらいまでずっとバイトしまくって、半年で50万円を貯めて、26歳の秋に再び上京しました。
レペゼン:
その計画性と継続力もさすがですね。
徳谷柿次郎:
いや、でも東京に引っ越してから大型のテレビとか買ってめっちゃ怒られましたけどね笑
「いや!俺は映画好きなんで!」って言い訳してました。
レペゼン:
二回目の上京生活はどんな感じで始まって行くんですか?
ガッツが認められ、編集者として飛躍
――「ジモコロ」立ち上げへの道
徳谷柿次郎:
上京した時は仕事はなかったので、界隈の編集者の人たちに顔を出したりしていきました。
それこそヒップホップの情報を出したり、記事の企画を出したり、体当たりでアーティストに取材しに行ったり。
そのうちに「あいつ、ガッツあるな」って言ってもらえるようになって。
レペゼン:
持ち前の行動力が少しずつ評価されたわけですね。
徳谷柿次郎:
追い込まれてたのもあって、小さなチャンスは全て応えていましたね。
例えば編集の会社の方から「雑誌の中で新入社員役のモデルの仕事あるけどやる?」って言われたのも「なんでもやります!!」って感じで引き受けたり。そうやって働いているうちに「柿次郎、すごい頑張ってて」といろんな先輩に言ってもらえるようになり、あるタイミングで編集の会社に拾ってもらったのが26歳の後半くらいですね。
レペゼン:
ついに正式に会社に所属されたわけですね。そこでは何年くらい働かれたんですか?
徳谷柿次郎:
2年ですね。社会人経験についての記事だったり、社長へのインタビューなどの広告の仕事を2年間やらせてもらいました。それでも正社員になるまで1年ぐらいかかりました笑
給料も申し分なくて良い会社でしたね。
レペゼン:
そこから転職されたんですか?
徳谷柿次郎:
そうです。さっき話に出したシモダテツヤっていう「オモコロ」の先輩が独立して立ち上げた「バーグハンバーグバーグ」っていう会社に誘われたんです。まだまだ元の会社でできることもあったと思うし、社長にもめっちゃ止められたんですけど、自分の本能的に、新しい会社に飛び込んだ方が面白いこと起きそうだなと思って飛び込みました。それが29、30歳くらいです。
レペゼン:
「バーグハンバーグバーグ」はどんな会社だったんですか?
徳谷柿次郎:
ウェブ領域で、企画主体の制作会社でしたね。そのシモダテツヤって先輩がめっちゃ才能ある人で、ウェブ企画広告の世界でも「バーグハンバーグバーグっていうやばい会社がある」と噂になってた感じでした。社員もみんな友達みたいな感じで。インターネットで才能のあるプレイヤーをどんどん会社に巻き込んでいったんですよね。自分は裏方として広報、ディレクターと率先的に動いた結果、給料も一年でだいぶ上げてもらいましたね。
レペゼン:
急成長ですね。
徳谷柿次郎:
その頃ちょうどオウンドメディアの流れが来た時代でもあって。「ジモコロ」というメディアも、僕がバーグに入社して4年ほど経った時に提案して。経費で全国どこにでも取材しに行けるというメディアを作ったのが32歳です。そこから水を得た魚のように働けました。「自分にしかできないオリジナルの仕事だ」と自信を持てたのもこの時ですね。
【どこでも地元メディア JIMOCORO】
徳谷柿次郎:
ヒップホップの話につなげると、その土地の文化を掘り起こすっていう視点がすごくディグっぽいというか。それを、プロレス的な表現、お笑い的な表現、テレビ的な表現… というように、ウェブ上で面白く演出するみたいなものがはまって。「ジモコロ」を始めた当時はめちゃくちゃチヤホヤされたんですよ。作る記事が全て読まれて。だから一番の転機は、この「ジモコロ」の立ち上げですね。
レペゼン:
そしていよいよ柿次郎さん自身も独立して起業のフェーズに進まれたと。バーグハンバーグバーグも給与的には申し分ない中、独立されたのはなぜですか?
徳谷柿次郎:
東京の中目黒にバーグの事務所があったんですけど、当時僕は台東区の三ノ輪のあたりに住んでて、通勤に1時間くらいかかるんですよ。満員電車に揺られるのもしんどくなってきて。しかも取材があるから月の3分の1くらいは地方に行ってるから、東京にいる自分と地方を回ってる自分のバランスが徐々に取れなくなってきて。
レペゼン:
なるほど。
徳谷柿次郎:
会社の人と価値観もずれてくるし、このまま彼らのお笑い主体の表現に自分がついていくのは難しそうだなと思ったんです。そこで34歳くらいで辞めることを決めて、全国を取材するという方向に30代を全部捧げようと思って。で、独立してすぐに長野市の家を借りて、二拠点生活の中で、自分自身が地域の人たちの生活に入っていくことにしました。
レペゼン:
そうなんですね。独立した当時によく聴いていた曲、背中を押してくれたラップソングはありますか?
徳谷柿次郎:
SEEDA『Livin’』ですね。
徳谷柿次郎:
今でもよく聞きます。「20までに30が決まる。30までに50が決まる」っていうリリックがめっちゃ好きで。
ただまあ僕は社会人になったのが出遅れているので「35までに50決まる」ぐらいの感じですけどね笑
レペゼン:
良いですね!
徳谷柿次郎:
この曲、好きな経営者も多い気持ちがします。自分の場合は、実家、家庭環境がぐちゃぐちゃだったので、家庭になんかあったらオレしか助けられないなっていうプレッシャーもあって、やっぱリスクとって独立して金稼ごうって思ったんですよね。その時にこの曲はすごく支えになったと思います。
編集者としてのキャリアを経て、いよいよ独立への道を歩み出した徳谷さん。次回は長野での生活、そして株式会社Huuuuについて聞いていくよ!お楽しみに!
プロフィール
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株式会社Huuuu代表取締役。大阪府出身。新聞配達と松屋のアルバイトでコツコツと積み上げる労働の原点を培う。二度目の上京で編集プロダクションに拾われて、社会人の喜びを知る。その後ウェブ系のコンテンツ制作会社の創業期に転職。企画、ディレクション、バックオフィス全体に携わった後に35歳で独立。株式会社Huuuuを立ち上げる。主な仕事に『ジモコロ』『Yahoo! JAPAN SDG`s』『SuuHaa』『OYAKI FARM』『DEATH.』など。 40歳の節目で『風旅出版』を立ち上げて自著『おまえの俺をおしえてくれ』を刊行。長野市では『シンカイ(休止中)』『MADO / 窓』『スナック 夜風』を営んでいる。座右の銘は「心配すな、でも安心すな」。