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ヒップホップ好きのスポーツ選手や文化人のキャリアについて全4回に渡ってインタビューしていく「あの人も実はヒップホップ」。今月は長野県長野市に拠点を置く株式会社Huuuu代表、編集者の徳谷柿次郎(とくたに・かきじろう)さんにお話をお伺いしました。Vol.2の今回は地元・大阪、そしてヒップホップとの出会いについて話して頂きました。
前回の記事はこちら→ 株式会社Huuuu代表、ヒップホップ好き編集者・徳谷 柿次郎とは?
居場所がなかった少年が出会った
ヒップホップという救済装置
レペゼン:
今回は徳谷さんの地元や幼少期、学生時代についてお伺いさせてください。
ご出身は大阪ということですが、大阪のどちらでしょうか?
徳谷柿次郎:
新大阪です。本当に何もない場所で。ビジネスと商業のために作られた人工住宅街という感じが強かったなと思います。文化という文化がない場所というか。
レペゼン:
大阪というと一般的にはいわゆる「下町」的な、文化の色合いが強い町のイメージが思い浮かびますが、そうではない町もあると。
徳谷柿次郎:
そうですね。たしか新大阪って1970年の大阪万博に合わせて造られた町で。色んな土地から人が移り住んできたことで、文化が根付いていないんですよね。そういう意味ではいわゆる「大阪」的なアイデンティティを形成するのが難しい土地だったなと。編集の仕事で全国各地を訪れるようになって、改めてそれを感じますね。
レペゼン:
なるほど。どんな子供だったんですか?
徳谷柿次郎:
比較的おとなしい子供だったと思います。『スラム・ダンク』世代なので、中学ではバスケ部に入ったのですが、ヤンキーが多すぎて嫌になって途中から行かなくなりました。実家も全然お金がなくて、バッシュも買ってもらえず。僕だけずっと体育館シューズでプレーしてましたね。
レペゼン:
つらいですね…。
徳谷柿次郎:
父親が消費者金融に手を出して借金を抱えてたのもあり、家庭環境もすごく悪くて。でもそういう自分の境遇とヒップホップで歌われる内容が重なって、夢中で聴くようになったのはありますね。
ラップミュージックが教えてくれた言葉の力
レペゼン:
ラップミュージックとの出会いは覚えていますか?
徳谷柿次郎:
ベタですが、Dragon AshとZEEBRAの『Grateful Days』だったような気がします。兄と弟がいるんですけど、兄弟の中で「これかっこいい」ってなって。
【Dragon Ash – Grateful Days featuring Aco, Zeebra】
レペゼン:
当時すごく流行ってましたよね。
徳谷柿次郎:
そうなんです。で、そこからRHYMESTER、BUDDHA BRAND、SOUL SCREAMなど当時のレジェンドたちのアルバムを聴いて。どんどんハマっていきましたね。
レペゼン:
ヒップホップのどういうところが徳谷さんには刺さったのでしょうか?
徳谷柿次郎:
んーなんなんでしょうね。言葉とかメッセージ性ですかね。音楽全般が好きだったのでパンクやミクスチャーなども聴いていのですが、僕にはピンと来なくて。内容も「世界平和が〜」とか歌われてもっていう。自分の目の前の生活はそんなことを考える余裕もないぐらい、ひどかったですし笑。
レペゼン:
なるほど。逆にヒップホップはその意味で共感性があったと?
徳谷柿次郎:
そうですね。ラッパーたちが語る貧困の境遇が自分の家庭環境とどこか重なっているのも面白くて。ただもちろんヒップホップが持つ不良性は僕にはなかったし、憧れたけど、自分はそうなれないという気持ちはありました。一方で一定の距離感を持ってその世界を見た時に、それが刺激的に映ったというのもありますね。
レペゼン:
当時、音楽はどのようにして調べていたのですか?
徳谷柿次郎:
TSUTAYAとかブックオフに通って、ヒップホップコーナーを端から端まで全部レンタルしてました笑
TSUTAYAには本当に救われましたね笑
レペゼン:
TSUTAYAでCDレンタル!懐かしいです!
徳谷柿次郎:
当時のTSUTAYAって今みたいに全店舗共通でTポイントカードがあるわけじゃなく、店舗ごとにカードがあったんですよ。店ごとにCDの仕入れも違ってて。そこで、行ける範囲の6店舗分のカードを作って、月に1回、チャリでお店を回って新譜を借りまくるっていうのが僕のディグでした笑
レペゼン:
すごい!今のストリーミング時代じゃ考えられない努力ですね。
ラップレビュー月50本。
誰に向けるわけでもなく書き殴った言葉たち
レペゼン:
高校卒業後はどんな進路に?
徳谷柿次郎:
夢も何もなかったので、なんとなくフリーターをしてました。新聞配達と松屋のバイトをずっとして、気づいたら松屋のシフトリーダーまで昇進してました笑
【当時働いていた松屋があった大阪・十三】
レペゼン:
何歳ぐらいまで松屋でバイトをしていたんですか?
徳谷柿次郎:
26歳までやってましたね。死にはしないけど社会に帰属できない、いわゆるまっとうな社会人になれないかもしれないという漠然とした不安は抱えてたのですが、結局松屋しか居場所がなく。ただそんな中でずっと書いていたのが日本語ラップのレビューなんです。
レペゼン:
おぉ!!どこかの雑誌とかですか?
徳谷柿次郎:
いえ、自分で勝手にやってネットにアップしてただけです笑
完全に趣味です。18、19歳ぐらいからですかね。新聞配達しながら新しいアルバムをひたすら聴いて、家に帰ってレビューを書いてネットにアップして……の繰り返しですね。それを月50本くらい書いてたと思います。
レペゼン:
月に50本ですか!相当な量ですね。
なぜレビューを書こうと思ったのですか?
徳谷柿次郎:
んー、なんだろう。ラップって読み解く要素もあるじゃないですか?自分なりにいつもそれを分析していて。ラップも言葉の芸術ですし、自分も言葉で何か表現してみたいと思ったのもありますね。
レペゼン:
良いですね。
徳谷柿次郎:
ただお金はなかったので、とにかく近所のTSUTAYAをぐるぐる回ってCDを借りて、ラップを聴いて元気をもらって、人が見てくれるかも分からないブログにレビューを書き殴るってのをひたすらやってました笑
最終的にはそれで「COMPASS(コンパス)」という日本語ラップのウェブマガジンを自分で作って、大阪のラッパーの方に取材しに行ってましたね。
レペゼン:
すごい!!まさに今の編集のお仕事の原点ですね。
徳谷柿次郎:
今思えばそうですね笑
SHINGO★西成が教えてくれた
本気でやるということ
レペゼン:
なかなかハードな10代、20代だったかと思いますが、そんな中、特に力をもらったアーティストを挙げるとするとどなたでしょう?
徳谷柿次郎:
SHINGO★西成さんですね。
彼の『心配すな..でも安心すな』という曲のタイトルにもなっているフレーズは、僕の座右の銘です。自分の著書のサインにもずっと使ってます。
レペゼン:
特に聴いていた曲は覚えていますか?
徳谷柿次郎:
アルバム『Sprout(2007年)』に入っている「ILL西成BLUES」はやっぱり好きですね。
【SHINGO☆西成 「ILL西成BLUES -GEEK REMIX」】
レペゼン:
間違いない日本語ラップ・クラシックですね。
徳谷柿次郎:
ちなみにSHINGOさんには一度大阪でのライブ前に挨拶させて頂いたことがあって。そこで「今、COMPASSというメディアを立ち上げて、こういうことやってて。何ができるかわかんないけど、お願いします」って挨拶したんです。けど僕も当時20歳そこそこで、本人の迫力に圧倒されて遠慮気味で。
レペゼン:
まぁそうなりますよね。
徳谷柿次郎:
でもSHINGOさんは「そこそことかええから、もっと本気でやろうや。俺もやるからお前もやれ」って正面から言ってくれて。「ウワー」って衝撃を受けましたね。いまだに僕も、会社の人とか、全国で出会う若い世代にも言います。「俺もやるからお前もやれ」って。本当に力をもらった一言でしたね。
ヒップホップに力をもらって、つらい日々をなんとかサバイブしていた徳谷さん。次回は上京、そして編集者となっていく時代について聞いていくよ!お楽しみに!
プロフィール
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株式会社Huuuu代表取締役。大阪府出身。新聞配達と松屋のアルバイトでコツコツと積み上げる労働の原点を培う。二度目の上京で編集プロダクションに拾われて、社会人の喜びを知る。その後ウェブ系のコンテンツ制作会社の創業期に転職。企画、ディレクション、バックオフィス全体に携わった後に35歳で独立。株式会社Huuuuを立ち上げる。主な仕事に『ジモコロ』『Yahoo! JAPAN SDG`s』『SuuHaa』『OYAKI FARM』『DEATH.』など。 40歳の節目で『風旅出版』を立ち上げて自著『おまえの俺をおしえてくれ』を刊行。長野市では『シンカイ(休止中)』『MADO / 窓』『スナック 夜風』を営んでいる。座右の銘は「心配すな、でも安心すな」。