パーティを通して人の心を強く揺さぶり続ける人達がいる。
彼らは何故、今の仕事を選んだのか?
このコーナーではパーティというカルチャーに関わり続ける演出家たちの過去から現在まで続くキャリアを紐解いていきます。
第三回は福生のクラブシーンを牽引し、ナイトクラブからスポーツの現場まで幅広く活躍するDJ YUMAさんのキャリアについてお送りします!前編に続き、今回は後編をお送りします。引き続きDJ SHUNSUKEがインタビューを行ってきました。
キャリアの大きなターニングポイント
SHUNSUKE:
福生のCRUNKでDJをやりはじめたことがキャリアの中でのターニングポイントでもあったんですか?
YUMA:
20代前半のCRUNKからトントン拍子でうまくいって、CRUNKが買い取った六本木のNATUREっていうクラブでもDJをやることになって、CRUNKの社員にしてもらったんですよね。でも上の人とうまくいかなくて辞めて。その悔しさをバネに自分のレーベルでMIXCDを始めたんです。
それまで外国人相手にDJをするために知らない楽曲を漁り続けたんで、日本人が知らない楽曲を知ってる自信があったんです。アメリカで流行ってる曲も、どのMIXCDにも入ってなくて、だったら僕ができるじゃんって。それをいかに自分のグルーヴで日本人に伝えられるかをやりたくて、Rideを始めたんです。やるからにはマンスリーでやろうって毎月出し続けました。
SHUNSUKE:
それが17年前ですよね。
YUMA:
2006年の22歳の時に始めました。専門学校を20歳で卒業したんで、大学を卒業するみんなよりも猶予が2年あるので、22歳までに何かやってやろうみたいな思いもありました。最初はアルバイトしながらやってたんですけど、Rideが売れてくれて。
CRUNKってアトランタのLIL JONが考え出したカルチャーの名前なんですね。その流れからアトランタやヒューストンとか、南部の音楽をいち早くかけてたんですよ。福生には外国人もいるし、ハーフも多いから受け入れられやすかったんです。それで感度の高い人たちが海外で流行ってる曲は渋谷とか横浜のクラブではかかってないけど、CRUNKってとこでめちゃくちゃかかってるらしいぜ、YUMAのCDにそういう曲が入ってるらしいぜってなって。それで認知されるようになったんですよね。
コツコツ続けた結果、20代半ば頃には六本木CRUNKもかなり盛り上がるようになってました。遊びに来てたり、一緒にパーティーしてたりした中にはMadeinTYOとか今じゃ有名になったアーティストやプロモーターもいました。それが自分のキャリアの中ではすごく大きかったと思いますね。
初期衝動のままプロを志す
SHUNSUKE:
実際にDJで生計を立てようとリアルに思った時期はいつだったんですか?
YUMA:
もう始めたときからです。
SHUNSUKE:
初期衝動の時点でDJでやっていくことは決めてたんですね。
YUMA:
高校が進学校だったんですけど、大学に進学してサラリーマンになるイメージが湧かなかったんですよ。それに大人たちって「また月曜日から働かなきゃいけない、残業しなきゃいけない」って言うじゃないすか。それっておかしくない?と思ってた人間なんですよ。だったら、働いても苦じゃない自分が好きなものをやろうと思って、それがDJだったんです。専門学校もレコーディングエンジニア科で音響を学んでました。DJ科もあったんですけど、DJに活かすために枝分かれした違うものを吸収しようと思って。
SHUNSUKE:
すごい。ちゃんと初期衝動のままDJで飯を食うって決めて、先のビジョンを見据えながら必要なものを取り込んでいったんですね。
YUMA:
それこそ才能がないとダメだと思う人は多いじゃないですか。もちろん才能はめちゃめちゃ大事なんですけど、やり続ければ絶対うまくなると思ってます。僕は中学校までずっとサッカーをやってて、一生懸命練習するとうまくなる実体験をしていたので。だから才能がなかったら、それを凌駕するくらい一生懸命努力するんです。
SHUNSUKE:
素晴らしいです。練習し続ければ何とかなるっていう自負は常にあったんですね。
YUMA:
もちろんいっぱい悔しい思いもしましたし、ダメだなと思うこともたくさんありました。選曲で失敗した時も帰ったその日のうちに何でダメだったのかを調べましたし、DJがダメだと帰ってそのまま練習もしました。悔しい思いをした時も、やっぱり常にやることでしか解決しないと思うので、今でもそれを続けてます。
SHUNSUKE:
すごくいいですね。自分にもそういう時期があったことを思い出しました。
これからの日本のシーンに願う事
SHUNSUKE:
これからの日本のシーンに願うことや望むことはなんですか?
YUMA:
DJって今すごく認知されてきて、クラブだけじゃなくカフェやレストランとか野外でやらせてもらうことがめちゃくちゃ増えてきましたよね。それは本当に先輩方やシュンスケくん含めて僕ら世代が一生懸命いろんなことをやったから変わってきたのもあるし、あとは運営が世代交代したのも大きい。
だからこそ、DJの活動の場をもっと広げていきたいです。これまで才能があるのに辞めていったやつもいっぱいいました。僕も今年40歳になるので、DJの裾野をさらに広げると才能があるやつらも活躍できるし、それが自分の役目なのかなと思ってますね。やっぱり我々もレジェンドになってきたから笑 もちろん僕自身もしっかり頑張っていきたいんですけど、キャリアを重ねた僕らにしかできないこともあると思っていて。
SHUNSUKE:
上の世代の人たちがゼロから作ったものの、本質的な部分を広げていくのは我々世代の仕事だと思います。自分のことだけ考えてやる人もいるだろうけど、ちゃんと意識を持つ人がやらないと本当の意味での間口は広がらないですよね。
YUMA:
ほんとにそう思います。だから僕らは広げて大きくして、下の人たちにも活躍してもらう。この間シュンスケくんとも話してたけど、クラブにDJをお願いされたからってレジェンドになってきた僕たちが若い子の仕事をえぐるのはちょっと違うと思ってて。もちろんクラブを伸ばすためにできることがあれば力を貸したいんですけど、これから活躍するのは若い子たちだと思うし、我々は我々で伸ばす場所が他にあるとも思うので。レジェンドって言ったらおこがましいんですけど、OBみたいな感じで。
SHUNSUKE:
他に挑戦する場所と挑戦すべきことが絶対にありますよね。一人一人ができることをしっかりやることで、それがいつのまにか合わさって形になっていくと思っています。
YUMA:
MIXCDを辞めたのも、次のさらなるステップを自分の中で作るための一区切りでもありました。今はフラフラしてるんですけど、もちろんDJはしっかりやってるんで、次なるシーンに繋がるためにやるべきことを考えていきたいと、本当に思ってます。
SHUNSUKE:
自分の活動が次の世代や新しいシーンに繋がる可能性は大いにあるから、やれることをもっと増やして広げていけるように、引き続き頑張るしかないですね。
YUMA:
そうですね。間違いないです。
プロフィール
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東京に生まれ、高校入学と同時にDJを始める。 都内各地の大箱や六本木、福生、横浜などのインターナショナルなクラブでキャリアを重ねる。現在は全国多数のイベントにゲスト出演し、ファッションショー、ラジオパーソナリティー等様々な活動の幅を広げ、自身のレーベルS-Cut Recordsの代表、そしてCrunk Entertainmentの看板DJとして活躍中。 常にフロアを意識した選曲で日本人はもちろん海外からも熱い支持を得ている。BET 106&Parkでお馴染みDJ Relly RellとのMixTape"Foreign Exchange"が話題となりFunkmaster Flexがシャウトを送るなど活躍を海外まで届かせている。 インターナショナルな現場で養われた耳による選曲は同業のDJを唸らせるほど。 新譜MixCDの決定盤!King of MixTape!